東京にあった「完全孤立の鉄道路線」とは 大河に阻まれた“一之江線” どう川越えた?

前途洋々の鉄道計画を「巨大分断河川」が阻む

 しかし、この江戸川区への路線展開を阻んだのが「荒川放水路計画」でした。出願直後の8月、梅雨前線と二つの台風が重なり利根川・荒川流域で大洪水が発生。抜本的な対応策として江東区と江戸川区の境界付近に幅500mもの新しい放水路を建設することが決まったのです。

 明治末から大正初期はまだ東京都市圏の拡大が本格化しておらず、後に郊外化を牽引する都心西部ですら、街道沿い以外は田畑が広がっていました。城東電気軌道が構想された都心東部はそれ以上に長閑で、沿線予定地に人家はほとんどありませんでした。

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1909年時点の江戸川区松江付近。X字状に道路が交差する部分は、現在の小松川JCTで荒川のど真ん中だが、当時は川の影も形もない(時系列地形図閲覧ソフト「今昔マップ3」〔(C)谷 謙二〕)。

 沿線の期待は鉄道を中心とした開発にあり、電気供給事業から銀行の設立まで様々な構想が立てられていました。沿線が田畑のうちに鉄道を建設すれば費用は安価で済み、発展とともに先行投資を回収できますが、最初から莫大な橋梁建設費が必要になっては採算が合いません。

 行き詰った城東電気軌道は渋沢栄一の甥である尾高次郎を社長に迎え、やむなく錦糸町~小松川に区間を短縮し、1917(大正6)年、ようやく開業にこぎ着けます。その後、渋沢系工場が並ぶ亀戸町、大島町、砂町に線路を延ばしていき、大半の発起人が望んでいた荒川放水路の向こう側は後回しになってしまいました。

 ようやく川向こうに東荒川~今井間を結ぶ江戸川線が開通したのは、関東大震災後の1925(大正14)年12月になってからのことでした。1926(大正15)年3月に江東区側から本線小松川~西荒川間が延伸開業するも、荒川放水路に橋梁を建設することはできず、わずかに途切れた西荒川~東荒川間は、直営のバスで連絡しました。

 江戸川線は全区間が単線であり、中間点にあたる一之江停留場付近の複線区間で行き違いをしていました。線路は今井街道に沿って敷設されましたが、一般的な路面電車とは違い、道路上ではなく専用軌道を走っていました。跡地は住宅地に転用されたため痕跡は残っていません。今井街道裏の狭い道路が線路跡と勘違いされがちですが、その脇の小さく区分けされた土地が唯一の痕跡です。また一之江境川親水公園には江戸川線の橋梁があったことを示すモニュメントが設置されています。

【完全分断路線「一之江線」のルートと遺構】

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