東京にあった「完全孤立の鉄道路線」とは 大河に阻まれた“一之江線” どう川越えた?
ようやく開業するも…
そんな江戸川線ですが、開業早々苦戦を強いられます。並行するその今井街道にはすでに、1920(大正9)年から葛飾乗合自動車が小松川~浦安、八幡間を結ぶバスを運行していたからです。
葛飾バスを使えば乗り換えが1度で済みます。運賃は江戸川線より高かったものの、城東電気軌道のほうも西荒川~東荒川間連絡バスは別途運賃が必要で割引乗車券制度がほとんどなかったので、様々な割引制度のある葛飾バスとの運賃格差はそれほどありませんでした。運転間隔は本線が2~3分だったのに対し、江戸川線は12分。葛飾バスは30分間隔の運行でした。
江戸川線開業後はますます競争が激化して業績は上向かず、やむなく城東電気軌道は葛飾乗合自動車の買収に踏み切ります。そして前途有望なバスに力を入れるようになり、荒川放水路への架橋計画も放棄されました。
その後、江戸川線は半ば放置され、のどかなローカル線のまま東京市へ移管されました。「江戸川線」という名称も、すでに市電の早稲田~九段下間を結ぶ路線に使われていたためか変更されることになり、新たに「一之江線」の名前が与えられました。
しかし市電となっても荒川放水路問題は解決しません。新設された小松川大橋を併用軌道化する選択肢もあったかもしれませんが、安価に利便性を向上するため、今井から亀戸、押上を経由して上野公園に至る「トロリーバス」(架線で電気を取り入れて走るバス)に置き換えられることになり、1952(昭和27)年に廃止されました。「江戸川線」は軌道から解き放たれることで、ようやく放水路を越えることができたのでした。
そのトロリーバスも、東京メトロ(当時は営団)の東西線開業に先立って1968(昭和43)年に廃止され、同区間は現在に至るまで路線バスのみの運行となります。実はこの路線もルーツをたどれば葛飾バスで、1942(昭和17)年に東京市に移管されたものでした。
【了】
Writer: 枝久保達也(鉄道ライター・都市交通史研究家)
1982年、埼玉県生まれ。東京地下鉄(東京メトロ)で広報、マーケティング・リサーチ業務などを担当し、2017年に退職。鉄道ジャーナリストとして執筆活動とメディア対応を行う傍ら、都市交通史研究家として首都圏を中心とした鉄道史を研究する。著書『戦時下の地下鉄 新橋駅幻のホームと帝都高速度交通営団』(2021年 青弓社)で第47回交通図書賞歴史部門受賞。Twitter:@semakixxx
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