「100km通勤が常識」になるはずだった? "限界状態"首都圏の救世主「通勤新幹線」6路線とは
国鉄の「ガチなアイデア」が実現しなかったワケ
このような国鉄側の構想に対し、自民党が興味を示したのは、自分たちの選挙区である地方と東京を結ぶ全国新幹線網だけでした。1970(昭和45)年に全国新幹線鉄道整備法(全幹法)が成立し、同法に基づく基本計画、整備計画が定められると、その計画外の路線整備は事実上できなくなってしまいました。
もっとも、通勤新幹線構想自体も多くの課題を抱えていました。先述の土地問題に加え、70~100km圏を東京の通勤圏とすれば「都心一極集中を助長する」として、首都圏整備を所管する建設省から反発が上がりました。その上、70~100km圏から都心までの輸送路を確保したとしても、最終目的地が東京駅、新宿駅という人はわずかであり、都心の山手線や地下鉄のさらなる混雑が危惧されました。
こうして看板倒れに終わった通勤新幹線でしたが、「置き土産」もありました。1973年に実際に整備計画が策定された「成田新幹線」は、前掲の通勤新幹線(A)のように、東京と成田空港の中間に「千葉ニュータウン駅」を設置し、通勤用としての役割も持たせる構想でした(最終的に1983年凍結、1987年中止)。
また東海道新幹線・東北新幹線・上越新幹線には通勤用列車が設定されました。
例えば、朝9時半までに東京駅に到着する上り列車は、1964(昭和39)年時点で8時39分着の「こだま202号」のみだったのが、1967(昭和42)年12月に熱海発の「通勤用列車」2本が設定されたのを皮切りに、1968(昭和43)年には7時30分着の「こだま482号」から9時25分着の「こだま204号」まで6本の列車が設定されています。
これで先述の(A)(D)(E)で志向した鉄道体系は一定、実現したと言えるかもしれません。ただこれは結果論であり、国鉄としては本意ではありませんでした。通勤新幹線構想が萎んでいく中、国鉄はその「精神」を引き継ぐ、「新たな構想」の検討に着手していくのです。
【了】
Writer: 枝久保達也(鉄道ライター・都市交通史研究家)
1982年、埼玉県生まれ。東京地下鉄(東京メトロ)で広報、マーケティング・リサーチ業務などを担当し、2017年に退職。鉄道ジャーナリストとして執筆活動とメディア対応を行う傍ら、都市交通史研究家として首都圏を中心とした鉄道史を研究する。著書『戦時下の地下鉄 新橋駅幻のホームと帝都高速度交通営団』(2021年 青弓社)で第47回交通図書賞歴史部門受賞。Twitter:@semakixxx
「甲府方面」と「高崎方面」の間が大きく空いてるけど、ここってそんなに需要が少ないのかな?