「発艦と着艦を一緒にやりたいの!」なぜ空母は今の形に? 試行錯誤も使えなかった“ひな壇”式

ひな壇にして発艦と着艦を同時に行うはずが…

 こうした問題を解決するため、第一次大戦終了後の1922(大正11)年6月からイギリスは再び「フューリアス」に改修を行いました。飛行甲板に構造物を全く持たないフラッシュデッキ型という形で、しかも飛行甲板がひな壇式に二段あるという多段式に変貌。上部甲板を着艦用、下部甲板を発艦用に使えば、効率のよい作戦行動を遂行でき、敵を波状攻撃できると考えたのです。

 この「フューリアス」に大きく影響を受けたのが、旧日本海軍でした。日本海軍もいち早く「鳳翔」という、改修ではなく最初から作られた空母を就役させていました。これは、やや小ぶりながら煙突や艦橋といった構造物をまとめて舷側に寄せたアイランド型の配置で、全通飛行甲板を持つものでしたが、やはり発艦と着艦を同時にこなせない問題を抱えていました。

そこで日本海軍は、ワシントン海軍軍縮条約の影響で戦艦としては建造中止になっていた「赤城」と「加賀」を空母に転用し、多段飛行甲板化します。

 しかも「赤城」と「加賀」さらにひとつ段を増やし、三段式の空母になりました。最上段の甲板は着艦および攻撃機など大型機の発艦用、中段も当初は飛行甲板にすることも考えられましたが、艦橋と20cm連装砲塔が2基設置されました。当時はまだ航空機の航続距離が長くはなく、敵の戦闘艦艇に肉薄され、砲戦が発生した場合に備えての装備でした。下段は戦闘機などの発艦用に使用されました。

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改修して多段式になった「フューリアス」(画像:アメリカ海軍)。

 課題の解決策かに思われた多段空母ですが、早々に日英の多段空母両方で、下段の飛行甲板が発艦に使うには短すぎて使いにくい、という問題が露呈します。

「フューリアス」や「赤城」「加賀」が完成した1920年代の航空機は、軽くて離陸しやすい複葉機が主体でしたが、すぐに艦載機の大型化、高出力化が始まり機体重量が重くなった影響で、結局、最上段の一番長い飛行甲板しか使われなくなります。

 そして、「赤城」「加賀」に関しては装備していた20cm連装砲塔の必要性が薄れたことから改装するという判断が下り、「加賀」は1935年(昭和10年)6月25日、「赤城」は1938(昭和13)年8月31日にそれぞれ一段の全通甲板になりました。なお「フューリアス」のほかに「カレイジャス」「グローリアス」が多段空母としての形を残したままでしたが第二次世界大戦に突入しています。

【え、どなた!?】最終形の見た目が全然違う多段空母時代の「赤城」と「加賀」(写真)

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