日本の電車は「藤岡市助」が産んだ 初の"営業運転"も 新幹線や高架電車も「明治時代」に発明済み!?
日本の都市の「電車」実現に向け奔走
同年には、後に大師電気鉄道(現在の京急電鉄)設立に関わる雨宮敬次郎や立川裕次郎、阪神電気鉄道初代社長の外山脩造、日本車輛製造を設立した奥田正香、そして1895(明治28)年に日本初の電気鉄道として開業した「京都電気鉄道」(後の京都市電)の設立者である高木文平などと共に、「電気鉄道期成同盟会」を組織し、働きかけを強めました。
京都電気鉄道の開業に前後して東京市内で多数の電気鉄道が出願されますが、その中には圧縮空気や蒸気機関、蓄電池、ケーブルを動力とする方式が含まれるなど、技術的な模索が続いていました。最終的には実績のある架空線電気式の採用が決まります。
しかし電線が1本の架線単線式は地中に埋設された金属管を腐食させ、電信電話に障害を及ぼすことから、電力を取り入れる電線と変電所に戻す電線を2本張る架線複線式とすることになりました。しかし障害対策の研究が進み、大正期以降順次、架空単線式への切り替えが進み、藤岡が推進したスプレーグ式の優位性が証明されたのです。
こうした中、藤岡は東京馬車鉄道の嘱託顧問に就任し、電化計画を推進。また京浜電気鉄道(現在の京急)、阪神電気鉄道の技術顧問にも就任しています。
続いて鉄道業界の有力者が合同して「東京市街鉄道」が設立されると、東京馬車鉄道改め東京電車鉄道の嘱託顧問を辞職し、東京市街鉄道の技師長に就任。こうして1903(明治36)年に東京馬車鉄道改め「東京電車鉄道」、東京市街鉄道、翌年に東京電気鉄道の3社が東京市に開業しました。
「藤岡は甲武大学在学中〜」とありますが、「工部大学」の誤りですので訂正をお願いいたします。
ご指摘ありがとうございます。修正いたしました。