かつて存在した「富士山“横断”鉄道」とは? 夢の短絡ルート“大月~御殿場” 峠越えは「ワイヤーで引っ張った」!?

ビジネスは長続きしなかった

 しかし馬車鉄道は開業早々、時代にそぐわないものになっていました。馬車鉄道が直面した課題は大月側と御殿場側で異なります。中央線と接続した富士馬車鉄道の営業は好調で、明治40年代初頭には年間20万人の旅客を輸送しています。特に富士登山需要は大きく、中央線から下車した大勢の登山客を運び切れないこともしばしばでした。

 いっぽう、都留馬車鉄道と御殿場馬車鉄道は営業不振に苦しみました。籠坂峠を挟んだ上吉田~須走間に人家はほとんどなく、中央線開通以降、富士登山客は御殿場経由から大月経由が主流となり、鎌倉往還を経由する旅客、貨物需要は大きく減ったのです。

 また鉄道馬車にとって籠坂峠は難所でした。『御殿場市史』によれば、道路に沿って軌道を敷設することができなかったため、最後の区間はなんと「直線状の斜面を、滑車とワイヤで馬車を引き上げていた」という有様だったようです。

 結局、御殿場馬車鉄道は1905(明治38)年9月に解散して一時、個人経営となり、1909(明治42)年に改めて同名の会社が設立されるなど経営が迷走。運行円滑化と経費削減のため1910(明治43)年には籠坂峠から御殿場方面の下り坂となる列車を「人車(人力)」に変更したいと申請しています。

 大正期に入ると、いよいよ時代遅れとなった馬車鉄道はその在り方を変えざるを得ませんでした。まず御殿場馬車鉄道は1918(大正7)年2月に須走~籠坂峠間、5月には須走~御殿場上町間を廃止して、「鎌倉往還」の輸送から撤退。御殿場市街地の市内輸送に特化しました。

 御殿場とのつながりが断たれた都留馬車鉄道は、需要の大きい大月方面への輸送に注力します。1919(大正8)年10月に小沼~上吉田間の軌間変更と電化を申請し、都留電気鉄道に改称。同じく電化を申請した富士電気軌道に合流し、1921(大正10)年7月から大月~上吉田間で電化運転を開始します。利用の少ない上吉田~籠坂間は地元有力者に売却し、経営から切り離しました(1927年廃止)。

 さらに大正末頃から乗合自動車(バス)の進出が相次ぎ、旧態依然とした「軌道」は競争力を失います。御殿場馬車鉄道は1928(昭和3)年に残る区間も廃止。富士電気軌道も1927(昭和2)年、富士山北麓地域開発を目的として創立された富士山麓電気鉄道に営業権を売却し、1929(昭和4)年6月に大月~富士吉田間の開業にあわせ廃止されています。

【了】

【画像】直結していた!?「大月~御殿場」鉄道ルートと「馬車車両」

Writer: 枝久保達也(鉄道ライター・都市交通史研究家)

1982年、埼玉県生まれ。東京地下鉄(東京メトロ)で広報、マーケティング・リサーチ業務などを担当し、2017年に退職。鉄道ジャーナリストとして執筆活動とメディア対応を行う傍ら、都市交通史研究家として首都圏を中心とした鉄道史を研究する。著書『戦時下の地下鉄 新橋駅幻のホームと帝都高速度交通営団』(2021年 青弓社)で第47回交通図書賞歴史部門受賞。Twitter:@semakixxx

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