大艦巨砲主義の終わりの始まり「タラント空襲」はなぜ大成功したのか 真珠湾攻撃はこれを参考にした
延期したことがある意味良い方向に
しかしこの延期は、ある意味では良い方向に転びました。タラントでは悪天候のため、飛行機による低空からの攻撃を防ぐために設置されていた阻塞気球の3分の2が撤去されていたのです。しかも、イタリア海軍の戦艦6隻全てが、たまたまタラント湾に揃っているという機会にも恵まれます。
「ソードフィッシュ」隊は第1波12機と第2波9機に分かれ発艦。第1波の攻撃隊がタラント湾に到着したときは、月明かりがあるとはいえ、まさか夜闇に紛れて攻撃機がくるはずないとイタリア軍は思っていました。そのため聴音機で敵機の音を拾っていたのにもかかわらず、誤報かせいぜい偵察機だろうと油断していました。
完全に不意を突いた攻撃によりわずか10分の間に戦艦「リットリオ」「カイオ・ドゥイリオ」「コンテ・ディ・カヴール」の3隻が魚雷を受け損傷。「リットリオ」「カイオ・ドゥイリオ」は大破扱いで約1年間戦線を離脱、「コンテ・ディ・カヴール」に至っては大規模な浸水が発生し着底。ほぼ撃沈状態になり、復帰することはありませんでした。
ほかにも、イタリア海軍は重巡洋艦1隻、駆逐艦2隻が損傷しています。戦艦に関しては半数になる3隻が戦闘不能となりイタリア海軍は作戦能力が麻痺してしまい、制海権はイギリス海軍に奪われることになります。対してイギリス海軍の損害は「ソードフィッシュ」2機のみと圧倒的勝利でした。
この戦いで、艦隊決戦に頼らない飛行機のみでの艦艇への攻撃の有効性が証明されました。その1年後の1941(昭和16)年12月8日、タラント空襲を参考に日本海軍がアメリカ海軍に対して行った真珠湾攻撃で、その有効性は決定的になります。
まだ“航行中の戦艦ならば沈められることはない”という神話は残りましたが、それも直後の1941年(昭和16)年12月10日に、マレー半島東方沖で発生したいわゆる「マレー沖海戦」で、イギリス海軍の最新鋭戦艦だった「プリンス・オブ・ウェールズ」と巡洋戦艦「レパルス」が沈没することで否定されます。タラントへの空襲はそうした大艦巨砲主義の終わりを象徴するような最初の作戦だったといえます。
【了】
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