「護衛の要らない最強の爆撃機」のはずが…旧陸軍機「呑龍」の誤算 “夢の戦い方”はなぜ空虚に?

しかし配備後に問題が山積

 機体名も愛称も名誉あるものになった同機ですが、制式採用され運用の始まった1941(昭和16)年から早くも問題が出始めます。

 まず、速度が九七式重爆撃機とそれほど大差ありませんでした、確かに陸軍爆撃機として初めて搭載した20mm機関砲1門のほかに、7.92mm機関銃5挺を備える重武装と防弾性の高さは評価されましたが、一番肝心なエンジン「ハ-41」の信頼性が悪く、故障が頻発してしまい、旧式機の方が現場では好まれるという状況になってしまいました。
  
 それでも陸軍では、これは初期不良と割り切り、運用しているあいだにエンジンの問題を解決し、ほかの部分も改良していくことで、同機をやがて主力にしようと考えていました。しかし、その目標は早くも制式採用年末に行った真珠湾攻撃で、根底から覆ることになります。

 真珠湾攻撃から対米・対英戦が始まると、新たに太平洋やインド洋方面での作戦が多くなります。これは、本来の目的である、ソ連との戦いを想定した大陸を長距離飛行する爆撃機というプランからはだいぶかけ離れたものでした。ただでさえ信頼性の悪いエンジンで、慣れない長距離での洋上飛行を行うことはかなり困難でした。

 さらにカタログスペック通りの性能を発揮できたとしても、敵機が振り切れないことも決定的となります。そもそも第二次世界大戦直前にエンジン性能が向上しつつあったところに戦争が始まったため、急速にエンジン技術が発達し、単発のエンジンでも戦闘機はかなり速度が出るようになりました。結果、戦前爆撃機の「高速性能」では対応できなくなります。

 現場の評判も芳しくなかったようで、九七式重爆撃機から乗り継いだパイロットには「『呑龍』の名前の通りどん重」と揶揄する人もいたそうです。結局、早々に後継機である四式重爆撃機「飛竜」へその座を譲ることに。なお、四式重爆撃機「飛竜」に関しては三菱製双発爆撃機の完成形といわれ、当時の人からも四式戦闘機「疾風」と共に「大東亜決戦機(大東亜決戦号)」として期待されていました。

Large 231218 do 03

拡大画像

インドネシア東部ワクデ島で偵察機に捉えられた一〇〇式重爆撃機「呑龍」(画像:アメリカ海軍)。

 そんな、一〇〇式重爆撃機が参加した爆撃作戦のなかで目立った戦果となったのがオーストラリアのポートダーウィン爆撃でした。同作戦で同機は2機が墜とされるものの、残り16機が「スピットファイア」戦闘機の猛攻を耐えきり、爆撃を成功させ帰還しています。ただ、当初陸軍が夢見た爆撃機隊単独での殴り込みではなく、一式戦闘機「隼」の護衛つきでした。

【了】

【あ、それで「呑龍」なの!】これが、一〇〇式重爆撃機の愛称の由来になった“お寺”です(写真)

最新記事

コメント

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleのプライバシーポリシー利用規約が適用されます。