「戦艦の砲塔こんなデカいのか…」現存唯一「陸奥」の砲塔内を実見! なぜ破壊されずに残った?

「陸奥」の最期&歴史を伝える主砲たち

 ところで、この江田島の海軍兵学校に4番砲塔を移設した戦艦「陸奥」ですが、その後に悲劇的な最期を迎えます。

 太平洋戦争序盤、ミッドウェー作戦や第二次ソロモン海戦などに参加した「陸奥」はその後、内地へと戻りました。その後、広島湾沖の柱島泊地に停泊していた「陸奥」は1943(昭和18)年6月8日の正午過ぎ、後部の3番と4番砲塔付近から突然煙を上げたかと思うと、間もなく大爆発を起こし、船体を真っ二つに折るとあっという間に沈没してしまいました。

 この惨事は砲弾の自然発火や人為的な放火など、いくつかの原因が挙げられましたが、その真相はいまだに不明です。ただ、この爆沈では乗員1474名のうち1121名が殉職するという大きな悲劇を起こしました。

 なお、戦後、何度かサルベージ(引き揚げ作業)が行われ、1970(昭和45)年に行われた大掛かりなサルベージでは、大改装後に載せ替えられた4番砲塔と共に船体の多くが海中から揚がっています。こうして何回かにわたるサルベージによって、「陸奥」自慢の40cm砲は複数が引き揚げられ、「陸奥」の生まれ故郷である神奈川県横須賀市のヴェルニー公園や長野県東筑摩郡の聖博物館、広島県の呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)などに展示されるようになったのです。

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呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)の横で展示される三年式40cm砲。こちらも左開きの尾栓が残っており、砲塔左側に配置された左砲であったことがわかる(吉川和篤撮影)。

 実は戦没した戦艦「大和」や「武蔵」、アメリカの原爆実験で沈んだ「長門」など太平洋戦争時に連合艦隊に所属した大多数の戦艦の主砲は、船体ごと深い海に沈んでしまい現在では見る事もかないません。そうした中、悲劇的な爆発事故とはいえ、比較的浅い瀬戸内海に沈んだことで「陸奥」は、その主砲を貴重な戦争の語り部として残すことに至ったのは歴史の皮肉と言えるでしょう。

 海辺にすっくと立ち、江田島湾を向き続ける「陸奥」の砲塔は歴史的な教材として今後も同地に残されると思いますが、前述の通り内部は一般見学できません。ただ、「陸奥」の巨大さを現代に伝えるのは、何も砲塔だけではないのです。

 各地に残る長大な40cm砲は、基本的にいつでも直接、その眼で見ることが可能です。むしろ、それらを間近で見ることでその質量を体感し、そこから戦艦のサイズを想像することは可能です。そのような形で、改めて往時に思いを馳せてみても良いのではないでしょうか。

【了】

【激レア!!】これが広島・江田島に現存する戦艦「陸奥」の砲塔内部です!(写真)

Writer: 吉川和篤(軍事ライター/イラストレーター)

1964年、香川県生まれ。イタリアやドイツ、日本の兵器や戦史研究を行い、軍事雑誌や模型雑誌で連載を行う。イラストも描き、自著の表紙や挿絵も製作。著書に「九七式中戦車写真集~チハから新砲塔チハまで~」「第二次大戦のイタリア軍装写真集 」など。

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