横浜みなとみらいのヌシ 帆船「日本丸」100歳目前!? あまりにも波乱万丈の半生を知っているか

世論が帝国議会を動かした!

 しかしこの時代は、遠洋区域を航行する船舶の船長や航海士になるためには、商船学校の航海科に入り、帆船実習を受けなければなりませんでした。海上物流が拡大し、船舶が増えるなかで高等海員の育成は急務であったものの、大型練習船を保有していたのは東京高等商船学校と神戸高等商船学校のみ。地方の商船学校は自前の小型帆船を持っていれば良い方で、そもそも練習船がなく民間船や漁船を借りて実習を行っている所もあったほどです。

 そのため、不十分な実習環境による海難事故も多発し、1927(昭和2)年3月には鹿児島県立商船水産学校の練習船「霧島丸」が遭難し、生徒・職員53人全員が行方不明となる悲劇も発生しています。

 この大惨事に衝撃を受けた世論は国会議員を動かし、1928(昭和3)年の帝国議会(当時)で大型練習船2隻の建造が決まりました。これが今もその姿を残す帆船「日本丸」と姉妹船の「海王丸」です。

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横浜ランドマークタワーの隣で今も保存・展示されている初代「日本丸」(深水千翔撮影)。

 文部省航海練習所の所属となった帆船「日本丸」は1930(昭和5)年10月4日、第1次遠洋航海として南洋諸島のポナペに向けて品川沖を出発。これ以降、遠洋航海や国内航海を通じて船員育成に従事することになります。太平洋を縦断しアメリカ西海岸のサンフランシスコやサンディエゴ、メキシコのエンセナダに寄港したこともありました。

 船員養成に重要な役割を担っていた帆船「日本丸」の遠洋航海は1941(昭和16)年12月8日に太平洋戦争が勃発すると中止に追い込まれます。当初は東京湾を拠点に訓練航海を行っていたものの、開戦によって日本近海にアメリカ海軍の潜水艦が出没するようになり、外洋へ出ることの危険性が高まっていきました。

【水抜いたトコ見たことある?】これが日本丸の船底&プロペラです 船内の様子も(写真)

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