横浜みなとみらいのヌシ 帆船「日本丸」100歳目前!? あまりにも波乱万丈の半生を知っているか
大戦中は石炭運搬船へと変貌
日本政府は船舶・船員の喪失が急増する中、補充する船員の養成と物資輸送の両方で練習船を活用することを考えており、「日本丸」と「海王丸」は帆装を撤去した上で瀬戸内海に訓練海域を移すことが決まります。
こうして帆船「日本丸」は、日本鋼管浅野船渠(当時)でヤードを全て取り外して石炭を輸送するための貨物倉を設ける工事を行い、塗装を灰色に塗り替え、戦争に協力することになります。
拠点を神戸港に変えた後は、福岡県の若松港と兵庫県の日本発送電尼崎発電所(当時)のあいだで石炭輸送に従事しつつ、瀬戸内海を中心に航海訓練を行っていましたが、戦局の悪化に伴って航行可能な海域は狭まっていきます。アメリカ軍は日本本土への空襲と並行して、海上物流を寸断するため瀬戸内海や関門海峡に機雷を投下しており、練習船隊は神戸港に閉じ込められたまま終戦を迎えました。
終戦後の帆船「日本丸」を待っていたのは、復員・引揚輸送でした。中国や東南アジア、南方諸島には軍人と民間人合わせて約600万人もの日本人が取り残されており、占領統治を担った連合国最高司令部(GHQ)はこれらの人々を速やかに日本本土へ運ぶことを求めます。さらに日本にいる中国人や朝鮮人、台湾人、インドネシア人などの送還輸送も行わなくてはなりません。
しかし太平洋戦争の結果、日本に残された3000総トン以上の大型船舶はわずか30隻。このうち1万総トン以上の船は「氷川丸」ただ1隻という状況でした。そこで、日本政府は旧海軍艦艇やアメリカ軍の戦車揚陸艦(LST)など使用可能な船をかき集めて復員・引揚業務を行うことに決め、「日本丸」と「海王丸」も投入されることになったのです。この時に船体塗装は黒色に改められ、側面には日本商船管理局(SCAJAP)ナンバーが入れられました。
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