国民へは極秘… 大和型は敵からどんな戦艦だと思われていた? 「とんでもなくデカい」「そんな主砲あるはずない」錯綜した情報
大和は「アルカトラズ島のように巨大だった」
建造については、1939(昭和14)年の『ジェーン年鑑』で、1938(昭和13)~1939年に呉、横須賀、神戸、長崎の4か所で起工とされ、1941(昭和16)年度版では5隻に増えています。その根拠は不明で、また建造場所の予測と起工時期はともかくとしても、大和型の計画数は5隻ですから、当たらずとも遠からずといったところでしょう。
ただ、太平洋戦争の開戦直後にアメリカが出した『日本海軍艦艇識別帳』では、艦名も「日進」「高松」とされるなど、情報は不正確でした。つまりアメリカは、「戦艦名は旧国名から付けられる」という当時の日本の少年でさえ把握していた情報を知らなかったことになります。
それでもアメリカ軍は暗号解読により、1942(昭和17)年12月には艦名が「大和」「武蔵」であることを把握します。そして1943(昭和18)年末には「排水量6万トン以上、主砲は46cm砲の可能性がある」との情報も得ていましたが、裏付けは得られない状態でした。
同じころ、アメリカ軍潜水艦「スケート」が「大和」を発見し、「アルカトラズ島のように巨大だった」と報告しています。「艦名不明の戦艦に魚雷2本を命中させた」としましたが、ロックウッド司令官が国民へのクリスマスプレゼントとして「新鋭戦艦『大和』を損傷させた」と報じたことで、艦長と司令官とのあいだでひと悶着あったようです。この報道もあり、海外で「日本の新型戦艦は大和型」と認識されるようになっていきます。
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