戦艦「長門」を捕鯨母船に!? 代わりに白羽の矢が立った知られざる武勲艦たち「飢餓状態の日本を救え!」

船体形状が捕鯨母船にうってつけ!

 一方、敗戦直後の日本に目を転じると、国内は復員者で人口が増える一方、戦禍や冷害による農作物の不作や魚介類の不漁により、食糧不足に見舞われていました。食糧増産の一環として、日本沿岸での捕鯨は行われていましたが、それを戦前のように遠洋でも実施してはどうかということになり、日本を占領していたGHQ(連合国軍総司令部)は、西大洋漁業統制(現・マルハニチロ)、極洋捕鯨(現・極洋)、日本水産(現・ニッスイ)の3社にその許可を出します。

 とはいえ、遠洋での捕鯨となると相応のサイズの船でないと対応できません。特に漁獲した鯨を解体・冷蔵保管する設備を有する捕鯨母船に転用可能な船は、数が限られていました。

 そこで利用可能な船舶の借用を、第二復員省(前・海軍省)に求めます。すると、第1候補として示されたのが戦艦「長門」でした。その理由は、損傷が軽微だったこと。ただ、それ以外にも、民間に貸し出せば連合国に接収されずに済み、敗戦処理のあとに「長門」を日本の手元に残せるかも知れないという考えもあったのではと推察されます。

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太平洋戦争終結後の1946年10月、呉港で撮影された第一号型輸送艦の「第二十二号輸送艦」(画像:アメリカ海軍)。

 しかし捕鯨業者側としては、「長門」の構造はあまりにも捕鯨母船には不向きでした。そこで、白羽の矢が立ったのが第一号型輸送艦の残存艦でした。このクラスは先に述べたように、船尾には上陸用舟艇や水陸両用戦車などを海面へと降ろすためのスリップウェイが設けられており、この構造は鯨を甲板上へと引き上げ解体するにはうってつけでした。そこで、船内に冷蔵庫と鯨油搾油のための機械を増設すれば捕鯨母船に転用可能と考えられたのです。

 改修されたのは、第九、第十六、第十九号輸送艦の3隻で、1946年の第1次捕鯨以降、1948年の第3次捕鯨まで小笠原近海へと出漁。シロナガスクジラ、ナガスクジラ、ザトウクジラ、イワシクジラ、マッコウクジラを合計約800頭以上、漁獲しています。

 かつて、物資不足に苦しむ最前線の日本軍将兵への決死の補給任務に携わった第一号型輸送艦。敗戦後は、失意の彼らを祖国に連れ戻す役割だけでなく、お腹を空かせた日本人への「食糧補給」にも力を尽くすなど、戦後も日本のために活動し続けた知られざる「武勲艦」だったといえるでしょう。

【了】

【73年ぶり】2024年3月に竣工したばかりの最新捕鯨母船です(画像)

Writer: 白石 光(戦史研究家)

東京・御茶ノ水生まれ。陸・海・空すべての兵器や戦史を研究しており『PANZER』、『世界の艦船』、『ミリタリークラシックス』、『歴史群像』など軍事雑誌各誌の定期連載を持つほか著書多数。また各種軍事関連映画の公式プログラムへの執筆も数多く手掛ける。『第二次世界大戦映画DVDコレクション』総監修者。かつて観賞魚雑誌編集長や観賞魚専門学院校長も務め、その方面の著書も多数。

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