どこにも行けない「44番出口」なぜ生まれた? 案内図に記載なし でも池袋駅前に堂々存在する謎施設の正体

「44」の目的地・交通島に何があったのか?

 ここに何かあったのでしょうか。東京商工会議所の『東京商工会議所調査資料』1968(昭和43)年3号に掲載された地上平面図によれば、現在、タクシープールがある場所にはバス乗り場があり、池袋を拠点に亀戸、浅草、品川を結んだトロリーバス「102」「103」「104」系統を含む15路線のバスが発着していました。

「28」と「44」はバス乗り場を挟むように配置されていますが、「28」はバス停とは反対側から降りる構造になっており、「44」だけがバス停の脇から降りられるようになっています。つまりこの出入口は、バス利用客が地下街に入りやすいよう、さらに地下鉄に乗り換えしやすいように設置されたものと見て間違いないでしょう。

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駅構内に掲出されている出口案内(枝久保達也撮影)。

 しかし1968(昭和43)年にトロリーバスが廃止されるとバス乗り場は再編されたようで、1971(昭和46)年の航空写真を見ると「44」と「28」の間は緑地帯となっています。結局、「44」出入口は開業から4年で役割を終えてしまったのです。

 緑地帯となってもしばらくは「44」と「28」の間には通路が設けられていましたが、この通路が閉ざされ「44」が完全な孤立に追い込まれる出来事が起こります。2004(平成16)年、明治通りの渋滞の一因となっていたタクシーの待機列を解消するために緑地帯を撤去して、タクシープールを設置することになったのです。こうして「44」は離れ小島として取り残されることになりました。

 ではなぜこの出入口に「44」が割り振られたのでしょうか。この周囲のISPの出入口が「33」までのところ、丸ノ内線の南側通路にある「42」「43」の次の番号を振ったのは、明らかに意図的です。実際、現地で「43」までのように案内されていることからも「44」の存在は隠されていると言えるでしょう。

 ISP開業当時、地下鉄に出入口番号は存在しませんでした。営団地下鉄がサインシステムの導入を決定したのは1970(昭和45)年のこと。1973(昭和48)年に千代田線大手町駅で行った実地試験が好評だったことから、1974(昭和49)年に開業した有楽町線池袋~銀座一丁目間11駅に全面導入。1975(昭和50)年から既存路線にも順次、拡大していきました。

 丸ノ内線池袋駅の出入口番号が有楽町線と同時に設定されたものかは分かりませんが、いずれにせよ「44」出入口は1970年代後半には役割を失っていたことから、最後の番号が「一応」割り振られたものと思われます。

【了】

【池袋駅東口】50年前の地上平面図と、実際の「44」出入口を見る(図・写真)

Writer: 枝久保達也(鉄道ライター・都市交通史研究家)

1982年、埼玉県生まれ。東京地下鉄(東京メトロ)で広報、マーケティング・リサーチ業務などを担当し、2017年に退職。鉄道ジャーナリストとして執筆活動とメディア対応を行う傍ら、都市交通史研究家として首都圏を中心とした鉄道史を研究する。著書『戦時下の地下鉄 新橋駅幻のホームと帝都高速度交通営団』(2021年 青弓社)で第47回交通図書賞歴史部門受賞。Twitter:@semakixxx

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