傑作イタリア車は日本車のパクり!? 有名評論家が主張した「定説」の真偽は? 関係者が吐露

アルファスッドを開発したのはポルシェ博士の愛弟子

 ちなみに、この疑惑は海外ではほとんど聞いたことがなく、日本国内でのみ囁かれている都市伝説に近いもののようです。この噂の出所を探っていくと、2014年に亡くなった自動車評論家の故・徳大寺有恒さんへとたどり着きます。

 徳大寺さんは、1976年に刊行された『間違いだらけのクルマ選び』(草思社刊)をはじめ、自著で度々この説を唱えています。彼が根拠として挙げていたのは、「アルファスッドの発表前にミラノのテストコースを訪れたところ、何台ものスバル1000が並んでいるのを、この目で見た」という自身の実体験でした。

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「アルファスッド」は高度なメカニズムを惜しみなく注ぎ込んだ革新的な小型車として登場したが、当時のアルファロメオは国営企業であり、このクルマのために新設されたナポリ工場は工員の質が低く、旧ソ連製の低品質な車両鋼板の使用により、前期型は製造クオリティが低かった(山崎 龍撮影)。

 結論から言ってしまうと、前出の説は事実ではありません。そもそも「アルファスッド」の開発に当たったルドルフ・ルスカさんは、ボヘミア出身のオーストリア人です。戦前は同郷のフェルディナント・ポルシェ博士のもとで「Kdfワーゲン」、いわゆる「ビートル」の愛称で知られるフォルクスワーゲン「タイプ1」の開発に携わっていたという経歴の持ち主で、ポルシェ博士とはいわば師弟関係にあった人物です。

 戦後、ルスカさんはイタリアに職を求め、チシタリアを経てフィンメカニカ(現レオナルドS.p.A.)に就職。ここでアルファロメオ「1900」の技術コンサルタントを務めたことをきっかけに、オラツィオ・サッタ・プリーガ技師の要請を受けてアルファロメオに移籍。1954年には同社初となるFF試作乗用車の「ティーポ103」の開発に携わっています。こうした過去の経歴から、「アルファスッド」の開発に当たっては水平対抗エンジン+FFという選択肢を採ることに迷いがなかったのでしょう。

 ルスカさんは1995年に日本の自動車雑誌のインタビューに応じており、その中で「アルファスッド」以前に存在したFF乗用車のランチア「フルヴィア」とロイト「アラベラ」の名を挙げて、「これらなどに影響されたわけではない」とキッパリと答えています。気になるのは“など“の中に「スバル1000」が含まれるかどうかですが、この場合は“含まれている”と見るのが妥当だと筆者(山崎 龍:乗り物系ライター)は考えます。

【アルファロメオがパクった!?】これが富士重工の名車「スバル1000」です(写真)

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