大和型が登場するまで「世界最大最強」 ナゾ多き最期も残骸は戦後に大活躍! 戦艦「陸奥」の生涯
戦艦の時代は終わりつつあった
「陸奥」の初陣は、1941(昭和16)年12月の真珠湾攻撃でした。ただ、この際の主力は空母機動部隊であり、「陸奥」は戦艦部隊として小笠原諸島近海まで航行しました。
翌1942(昭和17)年6月には、勝敗の転換点となったミッドウェー海戦へ後方支援のため参加。「陸奥」にアメリカ軍との直接的な交戦はありませんでしたが、この海戦で日本は主力空母を4隻も失う大敗を喫します。「陸奥」は救助された空母「赤城」の乗員を生還させました。
以降、「陸奥」は艦隊を組み南方へ進出しますが、海戦の主体が航空機を用いた空襲に移りつつある中で砲戦は起きず、加えて俊敏な駆逐艦隊との作戦行動においては“足手まとい”となってしまいます。燃料も不足しがちになり、「陸奥」は基地で待機することが増えていきました。
1943(昭和18)年2月、「陸奥」は呉軍港の南、現在の山口県岩国市にある柱島の泊地へ移動。それから4か月後の6月8日正午過ぎ、3番砲塔付近から煙が上がったかと思うと突如にして爆発、船体は真っ二つに裂け、あっという間に沈没してしまいました。約1500人いた乗員のうち8割が死亡する大惨事でした。
「陸奥の爆沈」は極秘とされ、特に事故を目撃した戦艦「扶桑」の乗員に対しては箝口令が敷かれました。爆発の原因については今日に至るまで解明されておらず、主砲弾の自然発火説や乗員の放火説などが語られています。ただ旧海軍では過去にも、火薬庫の爆発事故によって戦艦「三笠」や巡洋戦艦「筑波」などを喪失しており、「陸奥」でも同様のことが起きたのではないかともいわれています。
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