戦艦+空母=最強? 日本海軍が生んだ「航空戦艦」の顛末とは 艦載機乗りは驚愕の“帰還方法”

レイテ沖海戦で見事生き残ったものの

 両艦に艦載機を運用する部隊として第六三四海軍航空隊が新編されたのは、大戦後半の1944(昭和19)年5月のこと。なお、「彗星」だけでなく急降下爆撃が可能な水上機「瑞雲」も搭載されました。また、僚艦の空母として「隼鷹」「龍鳳」が加わり、全機連続射出訓練が行われるなど、1944年秋にはいよいよ実戦の時を迎えることになります。

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1944年のレイテ沖海戦でアメリカ空母艦載機が撮影した「伊勢」(画像:アメリカ海軍)。

 ところが1944年10月、基地航空隊を総動員しての一大航空決戦である台湾沖航空戦が始まると、第六三四航空隊はその戦力に組み込まれ、陸上の飛行場を拠点に活動する基地航空隊として奮戦することになりました。結果、二度と「伊勢」「日向」に搭載されることはなくなりました。

 その後、「伊勢」「日向」は艦載機を搭載せずにフィリピンへ出撃。レイテ沖海戦の激戦をくぐり抜けてなんとか日本へと戻ることに成功します。

 沈没を免れた両艦は、広島県の呉に停泊していましたが、終戦間際の空襲で共に大破着底します。結局「伊勢」「日向」から44機の艦上爆撃機が発進し、ほかの空母の艦載機などとともに航空戦を行うという当初の目的は、一度も実施する機会に恵まれることなく終わりました。

 ちなみに、艦上爆撃機「彗星」は旧日本海軍の艦上機としては「零戦(零式艦上戦闘機)」に次ぐ2000機以上もの生産数を誇ります。そのような機種のなかで、「伊勢」「日向」搭載用のカタパルト発進型「彗星二一型」「彗星二二型」は、「彗星」ファミリーにおける特異なサブタイプとして位置づけられています。

【了】

【爆弾落とした瞬間だ!】終戦直後の「伊勢」「日向」、艦爆「彗星」のレアシーンも(写真)

Writer: 関 賢太郎(航空軍事評論家)

1981年生まれ。航空軍事記者、写真家。航空専門誌などにて活躍中であると同時に世界の航空事情を取材し、自身のウェブサイト「MASDF」(http://www.masdf.com/)でその成果を発表している。著書に『JASDF F-2』など10冊以上。

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