上野駅「出入口ではない出入口」なぜできた? もうすぐ100歳の「謎の階段」は歴史の生き証人だった

「出入口ではない出入口」が、東京の地下鉄上野駅に存在します。現在、その階段は駐車場の専用口として機能していますが、実は戦前の銀座線開業にあわせて造られました。その100年近くにおよぶ長い歴史と、少しずつ変わっていった姿や役割を追います。

謎の階段は「テセウスの船」だった

 両側にあった都電口は、日比谷線建設時にコンコース新設の邪魔になるため片側が撤去されました。二つの平面図を比較すると地上側の階段の位置は変わりませんが、地下の階段を日比谷線の構築物にあわせて移設したため、地下から地上にかけて右側にクランクする形状になりました。

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上野駅前自動二輪車駐車場専用口(枝久保達也撮影)。

 本記事の執筆にあたり、福田静二さんから都電廃止直前に撮影した貴重な写真をお借りできした。都電停留所にそびえ立つ営団地下鉄の「Sマーク」から、この出入口が乗換口として重要な役割を果たしていたことが分かります。

 ただ『日比谷線建設史』には、「都電口出入口上家が高速道路の建設に支障するため首都高速道路公団の受託工事として撤去し、規模を縮小して昭和42年8月末に完工した」との記述があります。先ほどの写真は縮小後のもので、1967(昭和42)年以前の形状はまた異なるようです。

 では、都電廃止以降はどのような経緯をたどったのでしょう。詳細な記録はほとんどありませんが、東京メトロ工務部が2005年に発行した『帝都高速度交通営団 工務部のあゆみ』には、都電口の箇所を指して「日比谷線上野駅非常出入口移設工事」を1987(昭和62)年10月に行ったとあります。

 昭和通りの中央分離帯の整備に伴い、「都電口」の移設が必要になったようですが、すでに役割を終えた出入口を廃止では移設したのは、工事の件名に「非常出入口移設」とあるように、避難経路としての役割が与えられていたようです。

 前述のように「都電口」の階段は、日比谷線開業時は地下から地上にかけて右側にクランクしていましたが、現在の左側にクランクしています。これは1987(昭和62)年の工事で上屋の位置が変わったことに起因するようです。

 忘れ去られた謎の階段は、100年近く同じ場所に居続けながら、都電乗換口、非常出入口、駐車場出入口と役目を変え、さらに上屋、階段上部、下部のすべてが作り替えられた「テセウスの船」だったのです。

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Writer:

1982年、埼玉県生まれ。東京地下鉄(東京メトロ)で広報、マーケティング・リサーチ業務などを担当し、2017年に退職。鉄道ジャーナリストとして執筆活動とメディア対応を行う傍ら、都市交通史研究家として首都圏を中心とした鉄道史を研究する。著書『戦時下の地下鉄 新橋駅幻のホームと帝都高速度交通営団』(2021年 青弓社)で第47回交通図書賞歴史部門受賞。Twitter:@semakixxx

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