海自の悲願! 70年越しで実現した「空母保有」なぜ挫折続いた? 真価問われるのはこれから

海上自衛隊のヘリコプター搭載護衛艦「いずも」「かが」が事実上の空母に姿を変えます。ただ、海上自衛隊は空母の保有を発足前から望んでいたとのこと。どのような経緯だったのか、70年以上かかったその歩みを振り返ります。

草案では空母4隻の保有を検討

 米国カリフォルニア州サンディエゴ沖で、ステルス戦闘機「F-35B」の運用試験を行っていた海上自衛隊の護衛艦「かが」が2024年12月16日、呉基地に戻ってきました。同艦はJMU(ジャパンマリンユナイテッド)呉事業所で行われた第1回特別改造工事で、艦首部分を台形から長方形へ変更するなど、「空母化」を見据えた様々な改修が施されており、今回の試験では、搭載されている各種機器の動作や艦上における機体の取り回しといった、固定翼機の本格運用に向けたさまざまなデータを収集しました。

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太平洋を航行する護衛艦「かが」(画像:アメリカ海軍)。

 護衛艦「かが」の事実上の空母化は、かつて大型空母を複数隻保有・運用していた旧日本海軍が解体された後、現憲法下で新たに発足した海自にとって長年の悲願とも言えるものです。

 そもそも、海自の空母保有計画は朝鮮戦争勃発の前後、つまり後に陸上自衛隊となる警察予備隊が発足し、日本の再軍備が動き出した1950(昭和25)年まで遡ります。当時、旧海軍の再建を模索していた野村吉三郎や福留 繁、保科善四郎らのグループは海上兵力の整備計画を「研究資料」として作成しており、この中にアメリカ軍から「護衛空母」を供与してもらい保有すると明記していました。

 ただ、この時の「研究資料」は護衛空母4隻に加え、潜水艦8隻、巡洋艦4隻、さらには輸送艦14隻を含む艦艇約140隻、航空機750機という大規模なものでした。当時の日本の状況は、終戦からまだ5年ほどしか経っていないため、大戦の傷跡が多く残り、まだまだ復興途上であったことから、そうした余裕などないことは明らかです。

 最終的には、アメリカ側の窓口であったアーレイ・バーク少将の助言もあり、一気に整備するのではなく、年度別に導入計画を立てて段階を踏んで実現していく方向になりました。そこで、当時の日本政府は、戦後も海軍再建を研究していた旧海軍軍人や海上保安官による内閣直属の諮問機関、いわゆる「Y委員会」での議論も踏まえ、1952(昭和27)年4月、海上警備隊を創設します。

 ちなみに、海上警備隊の主要装備はアメリカから貸与されたパトロール・フリゲート(PF)、くす型警備船が中心でした。

 なお、空母に関しては、その後もアメリカ海軍から駆逐艦母艦を貸与してもらって改造する案や、関釜連絡船として建造された「興安丸」を改装する案、さらにはアメリカ軍事援助顧問団が貸与する意向を示していた空母2隻を導入する案など、さまざまな構想があったものの、いずれも実現しませんでした。

【え、使っていたの?】かつて海自が保有した空母OKな艦載機たち(写真)

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