「日産どうした!?」と思ったに違いない衝撃度 なぜあのイケイケの時代に激レトロな“パイクカー”だったのか
ずいぶん昔の車に多かったイメージを現代社によみがえらせる、「パイクカー」というジャンルがあります。往年の名車を復刻するのとは意味が異なり、あくまでも「レトロ調の新開発車」を指すことが多いこのパイクカーですが、特にその開発に力を注いだのが日産でした。
オシャレカー続々! 第二弾は「PAO」
●第二弾:PAO
Be-1の想像を絶する支持を受け、日産は1987(昭和62)年の東京モーターショーに新たなパイクカーを出展します。それがPAOというモデルで、Be-1同様、初代マーチをベースにしながらもアウトドアのイメージを随所に感じさせるデザインでの登場でした。
当時のリリースには「リゾート気分を感じさせるアドベンチャー感覚溢れるクルマ」とあり、Be-1からもう一歩飛躍させたコンセプトでした。PAOは1989(平成元)年1月から3か月間の予約申し込みを受け付け、この間の注文台数全てを販売しました。
●第三弾:S-CARGO(エスカルゴ)
また、PAOと同年の1989(平成元)年、日産はこれまた斬新なパイクカーも発売。S-CARGO(エスカルゴ)という商用車で、初代パルサーバンがベース。その外観は、車名通り「カタツムリ」をイメージしたモデルですが、見た目のインパクトだけでなく、荷室が広いこともあり、ビジネスユースの実用性にも長けた1台でした。わずか2年間の限定生産車でしたが、8000台が販売されました。
●第四弾:フィガロ
さらに日産は、新たなパイクカーを1989(平成元)年の東京モーターショーに出展。フィガロというオープンカーモデルで、これもまた初代マーチをベースにしたものです。数世代前のようなレトロ感を演出しつつ、ターボエンジンを搭載し、デザインやコンセプトの斬新性だけでなく乗り味にもこだわった1台でした。
フィガロの一般発売は1991(平成3)年から1992(平成4)年までの2年間。当初日産では8000台の限定生産を予定していたものの、購入申し込みが殺到したため、2万台の限定販売となり、抽選方式での販売となりました。ちなみに抽選には21万もの応募があったと言われています。
日本国内でも熱い支持を得たフィガロでしたが、特にイギリスでは今日まで絶大な支持を集め続け、生産終了から30年以上経った今も、フィガロのパーツを製造するリプロダクトメーカーも存在するほど、長きにわたって愛され続けています。
>Be-1以前からレトロ調のクルマを作り続ける光岡自動車
ダウト。
Be-1登場の頃の光岡自動車は、50ccの四輪車、いわゆる「ミニカー」を作るメーカーでしたよ。あれは別にレトロを狙ったわけでもなんでもないです。