通勤電車はなぜ「4ドア」主流に? 少なくても、多くても、大きくても困る!? 試行錯誤の120年
通勤形の鉄道車両で、大量の乗客が乗り降りするドアは重要な設備です。現在の通勤電車は4ドアが主流ですが、どのような経緯を経て、このようなスタイルに進化してきたのでしょうか。
戦時中に生まれた4扉車
大正末から昭和初期にかけて通勤需要は一層、増加します。それまでは駅員がひとつずつドアを手動で開けていましたが、空気式のドアエンジン(自動ドア)導入が始まり、停車時間を大幅に削減しました。
このレイアウトとメカニズムは長らく戦前のスタンダードとなりましたが、次の変化は戦争とともに訪れました。総動員体制下の勤労動員でさらに増加した乗客をさばくため、鶴見臨港鉄道(現・JR鶴見線)は1942(昭和17)年に17m車体4扉車を新造。また鉄道省も1943(昭和18)年に20m車体2扉の「モハ43形」を4扉に改造し、通勤輸送に投入しました。
これを踏襲して1944(昭和19)年、戦時設計の20m車体4扉車、いわゆる「63系」が策定されますが、実際の製造は戦後まで持ち越しになりました。続いて安全性を見直した、いわゆる「72系」が導入され、戦後の混乱期を支えました。
そんな中、1954(昭和29)年開業の地下鉄丸ノ内線に、日本初の両開きドアを採用した「300形」が登場します。鉄道省も1941(昭和16)年に両開き車両を試作していましたが、実用化は1957(昭和32)年の「モハ90系(101系)」まで待たねばなりませんでした。
101系は「20m車体」「幅1.3m両開き扉」「4扉」という現代の電車のスタンダードを確立しました。戦前の決定版である「20m車体」「幅1.1m片開き扉」「3扉」のモハ40形と車体長に占める開口部を比較すると、モハ40形が16.5%なのに対し、101系は26%まで増加しています。高度成長期の通勤輸送は101系に始まる新性能電車抜きには成り立たなかったでしょう。
さらに扉を増やしたのが、1970(昭和45)年に登場した京阪電鉄「5000系」です。通常は19m級車体に3扉のところ、中間にドアを設置し5扉とすることで混雑緩和を狙ったものです。奇手と言える取り組みでしたが、バブル景気で東京圏の混雑が激化すると、JR東日本は山手線に「6扉車」、地下鉄日比谷線、東武伊勢崎線、京王電鉄が「5扉車」を導入しました。
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