「大和」と一緒に戦った“九死に一生”極めし軍艦、その稀有な経歴って? 今も”実は守ってます!”
戦艦「大和」が沖縄特攻作戦を行い、坊ノ岬沖で沈没してから、今年で80年。この戦いに共に参加し、生き残った駆逐艦がありました。
艦の原型がないほどズタズタに破壊される
「涼月」が最初の大きな悲劇に見舞われたのは、1944年の1月のこと。同艦は、特設巡洋艦「赤城丸」の護衛をしてウェーク島(太平洋中西部、マーシャル諸島北方約1000キロメートルに位置する環礁。1945年にアメリカ領に)へ向かう途中でした。

ここで「涼月」はアメリカ海軍の潜水艦「スタージョン」に発見され、「スタージョン」が発射した4本の魚雷のうち、1本を弾薬庫の右舷に、もう1本を艦尾に受けてしまいます。「涼月」の損傷は深刻で、弾薬庫が誘爆し艦首が吹き飛ばされてしまいました。
さらにこのときの同艦は、艦尾に命中した魚雷により艦尾も引きちぎられてしまいます。この損傷により4番砲塔はかろうじて残りますが、動力関係も含め、それより後ろの構造物はすべて使い物にならなくなります。
艦そのものの損傷に加え、人的損失も深刻でした。
乗員は艦長の瀬尾昇中佐以下、指揮するべき将校はほぼ戦死。合計で100名以上の命が失われました。ただ、そんな状況でも奇跡的に沈みはせず、海に浮かぶ小さな漂流船のような状態となりつつも耐え、僚艦「初月」に曳航されて、何とか当時の海軍における拠点のひとつであった広島・呉に帰投しました。
呉にたどり着いた「涼月」はそこで半年以上にわたり修理が行われ、新たに生まれ変わることになりました。
ボロボロになってしまった艦橋や艦首、艦尾はすべて新しいものに取り換えられ、まったく別の艦のような外観に生まれ変わりました。しかし、この艦首は早くもこの年10月の最初の出撃で、またも吹き飛ばされて帰ってくる羽目に。今度もアメリカ軍の潜水艦の魚雷攻撃を食らったのです。とはいうものの、このときの魚雷攻撃は大きな爆発を起こすことはなく、乗組員2名を失いましたが、自力帰還することができました。
この期間後の修理では、武装的にも大きな改変が加えられ、対空兵装が強化されて、この戦争中に急速に脅威度が増した航空機への対策が計られました。この装備はその後、日本海軍に残った数少ない戦艦である「大和」を守るために使われることとなります。
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