東京駅「赤レンガ駅舎」が、よく見ると“南側だけ長い”ナゾ 利用者の不満を買った「100年前の構造」をひもとく
東京駅の丸の内駅舎は左右対称に見えて、実は南側だけ建物が奥へ続いています。これは設計当時、3つの改札口の役割を分けていたことと関係していますが、どのような理由と経緯があったのでしょうか。
駅の「重心」は徐々に八重洲側へ
乗車口と降車口の分離はラッシュ時間帯の混雑緩和に効果があるものの、問題はその距離が200m以上離れていたことです。丸の内周辺の開発が進むと電車利用者が急増しますが、彼らには手荷物預かり所も待合室も必要ありません。皇室専用口の隣、駅中央に電車降車口はあれども、乗車口は南口のみ。北側の大手町方面から乗車する場合、200mも余計に歩かねばなりません。
そこで山手線が環状運転を開始した1925(大正14)年に電車降車口を閉鎖し、電車利用者は乗車口、降車口どちらでも利用できるようになりました。また、1929(昭和4)には東側に電車利用者向けの八重洲口が新設され、東京駅は次第に電車利用に対応した形態へと変化していきます。
丸の内駅舎は戦争で大きな被害を受け、終戦後に規模を縮小して修復されますが、これにあわせて1948(昭和23)年に評判の悪かった乗車口、降車口の区分が廃止されました。また、丸の内の主要ビルがGHQ(連合国軍総司令部)に接収されたため、ビジネスの中心は八重洲側に移り、八重洲口の利用者は急増します。
1948年に完成した八重洲口新駅舎は半年で焼失してしまいますが、1954(昭和29)年に近代的なターミナルビル「鉄道会館ビル」が完成すると、駅機能の中心は八重洲側に移っていきます。やがて丸の内側の「乗車口」「中央口」「降車口」という名称が分かりにくいという声が上がり、国鉄は1959(昭和34)年10月にそれぞれ「丸の内南口」「丸の内口」「丸の内北口」に改称しました。
南口が乗車口だったことを示す痕跡が、南側のみ50mほど張り出した「南ウイング部」です。駅は出札(きっぷ売り場)、手荷物預かり所、待合室、食堂・売店など乗車前に使用する設備が多いため、乗車口付近のスペースを大きく取り、等級別の待合室やトイレ、食堂・売店などを設置していたのです。
前掲『高架鉄道と東京駅』は、「大きな駅で乗降口の導線を完全に分離したレイアウトは、いまなお中国の鉄道駅などで根強く用いられており、各国の鉄道文化の違いを示す慣習のひとつとなっている」と指摘します。丸の内駅舎の利用形態の変化もまた、日本の鉄道文化の変化を象徴していると言えるのでしょう。
Writer: 枝久保達也(鉄道ライター・都市交通史研究家)
1982年、埼玉県生まれ。東京地下鉄(東京メトロ)で広報、マーケティング・リサーチ業務などを担当し、2017年に退職。鉄道ジャーナリストとして執筆活動とメディア対応を行う傍ら、都市交通史研究家として首都圏を中心とした鉄道史を研究する。著書『戦時下の地下鉄 新橋駅幻のホームと帝都高速度交通営団』(2021年 青弓社)で第47回交通図書賞歴史部門受賞。Twitter:@semakixxx
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