「国鉄」「蒲蒲線」「東京メトロ」も作ったのはアメリカ? 日本の鉄道を形作った“戦後7年間”の痕跡
鉄道は戦中から戦後にかけて重要な交通機関でしたが、これは日本に進駐した連合国軍にとっても同じでした。進駐軍は荒廃した日本の鉄道を7年間でどのように変えたのでしょうか。その対応をたどります。
GHQ鉄道対応の最大の影響は?
意外な名残が、車内への消火器の取り付けです。1981(昭和56)年に国鉄が発行した『鉄道終戦処理史』によれば、それまで国鉄は客車に消火器を設置したことはありませんでしたが、1947(昭和22)年9月にMRSが進駐軍専用車両への設置を指示したことで、客車817両、荷物・郵便車85両に消火器を設置しました。
1951(昭和26)年に電車2両が燃えて死者105人、重軽傷者55人を出した桜木町事故以降、消火器の普及が進み、やがて運輸省令で設置が義務付けられました。同書は進駐軍専用車両への設置が出発点にあると記しています。
もっと大きなくくりで見ると、最大の影響は日本国有鉄道(国鉄)の設立といえるかもしれません。日本の鉄道は1906(明治39)年の国有化以降、鉄道省(→運輸通信省→運輸省)の直営でしたが、GHQは1948(昭和23)年9月に国営鉄道を「public corporation(公共企業体)」に再編するよう指示します。
アメリカにはテネシー河開発局(Tennessee Valley Authority =TVA)など様々な公社がありましたが、日本にはなじみがなく、どのような組織形態なのか実態がほとんど知られていませんでした。
加えてGHQ内部の見解も一致せず、政府の監督を最小限にして自由で能率的な組織とする考えと、国家財政に影響が大きい巨大組織であることから政府機関に準じた財政面の監督を受けるべきとの考えがありました。
両者の思想が反映された日本国有鉄道は、それゆえ政府から十分な財政支援を受けられず、その一方で旅客需要に対応すべく積極投資を進めたために、膨大な赤字を積み上げ、最終的に破綻してしまいますが、遠因はこの時の議論にあったともいえるでしょう。
国鉄とは異なり、公共企業体の概念を積極的に活用したのが帝都高速度交通営団、後の東京メトロです。GHQは戦時中に設立された交通営団を戦争目的の機関とみなして廃止する意向でしたが、交通営団は首都の交通整備を目的とした非軍事的組織と弁明して存続が認められました。
当時、GHQとの折衝を担当した東 義胤は、交通営団の英語表記を「Teito Rapid Transit Cooperation」から「Teito Rapid Transit Authority」に変更し、TVAと同じ性格の組織と主張したところ、途端に話がスムーズに進んだと述べています。
鉄道が「異文化」に直面した7年間は、日本の鉄道史に確かに爪痕を残しているのです。
Writer: 枝久保達也(鉄道ライター・都市交通史研究家)
1982年、埼玉県生まれ。東京地下鉄(東京メトロ)で広報、マーケティング・リサーチ業務などを担当し、2017年に退職。鉄道ジャーナリストとして執筆活動とメディア対応を行う傍ら、都市交通史研究家として首都圏を中心とした鉄道史を研究する。著書『戦時下の地下鉄 新橋駅幻のホームと帝都高速度交通営団』(2021年 青弓社)で第47回交通図書賞歴史部門受賞。Twitter:@semakixxx
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