「国鉄」「蒲蒲線」「東京メトロ」も作ったのはアメリカ? 日本の鉄道を形作った“戦後7年間”の痕跡
鉄道は戦中から戦後にかけて重要な交通機関でしたが、これは日本に進駐した連合国軍にとっても同じでした。進駐軍は荒廃した日本の鉄道を7年間でどのように変えたのでしょうか。その対応をたどります。
新線建設も要求
進駐軍は新線建設も要求しました。代表的なものは、進駐軍航空部隊の基地となった羽田空港と東海道線の接続を目的として、京浜電気鉄道穴守線(現・京急空港線)稲荷橋~京浜蒲田間の上り線を接収して改軌、京浜蒲田~蒲田間に貨物連絡線を新設した「蒲蒲線」があります。この他、各地の基地や港に側線が建設されました。
もうひとつ有名な存在が「東武啓志線」です。元々は戦時中の1943(昭和18)年に上板橋駅と陸軍第一造兵廠(現・陸上自衛隊練馬駐屯地)を結ぶ連絡線でしたが、1946(昭和21)年3月に成増陸軍飛行場跡地(現・光が丘団地)の進駐軍基地まで延伸。米軍関係者の名前「ケイシー」から「啓志線」と名付けられ、東武が運行しました。
啓志線は進駐軍用の路線としては珍しく、1947(昭和22)年12月から3か月弱ですが、ガソリンカーで池袋まで直通する旅客輸送を行っています。米軍輸送の終了後、再旅客化も検討されましたが、残念ながら1959(昭和34)年7月に廃止されました。
GHQの影響は一部に今も残っています。日本は戦前からディーゼル機関車を開発していましたが実用化が遅れ、電気機関車と蒸気機関車のみを使用していました。そんな状況を見たベッスン氏は「将来ディーゼルを使う日が来るから、トレーニングの意味で」としてディーゼル機関車8両を貸与しました。
現場は最初、初めての車両を持て余していましたが、契約終了が近づくと便利さが分かってきて、返還しないよう要望してきたそうです。国産ディーゼル機関車の開発は戦後早くに再開しますが、ディーゼルエンジンの国産化に時間がかかり、実用化は1953(昭和28)年の「DD50形」まで待たねばなりませんでした。ベッスン氏の厚意はそのきっかけのひとつだったといえるでしょう。
一方、国鉄は石炭不足への対応策として、10年間で6726kmの電化を計画しましたが、GHQは電力不足、資金不足を理由に消極的でした。すでに鉄道が斜陽化していたアメリカの感覚では、わざわざ鉄道に大規模な投資をする必要性が分からなかったのかもしれません。
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