日本海軍「最後の戦艦」は史上最もタフだった? まさに“海に浮かぶ鉄の城 ”「大和」より優れた面も
1942年8月5日、日本海軍の戦艦「武蔵」が竣工。日本戦艦の集大成としてふさわしい艦に仕上がり、「大和」から改善された点もありました。
大戦後半から最前線に赴く
「武蔵」が本格的な実戦に参加したのは、1944年6月のマリアナ沖海戦です。連合艦隊の旗艦機能も軽巡洋艦「大淀」や陸上に移ったため、ついに「武蔵」も最前線に投入されることになったのです。

ただ、この頃になるとアメリカとの戦力差は大きく開きつつあったほか、戦いの主役となった航空機の脅威が更に増し、「武蔵」が戦局に貢献できるような舞台は既にありませんでした。戦いに臨むにあたって、副砲を撤去して対空機銃を増設するなど、戦訓を踏まえた改装が施されています。ただ高角砲の増設が間に合わず、25mm3連装機銃で代用しています。
マリアナ沖海戦でも「武蔵」は、目立った戦果を挙げることなく終わっています。そして最後の戦いとなったのが、同年10月に起きたレイテ沖海戦(捷一号作戦)です。
日本海軍はレイテ島へのアメリカ軍の上陸を阻止すべく、囮の機動部隊(小沢艦隊)を日本本土から出撃させて敵の戦力を引き付け、その隙に主力部隊(栗田艦隊)と別動隊(西村艦隊、志摩艦隊)をレイテ湾に突入させ、艦砲射撃で上陸部隊を撃滅しようとしました。「武蔵」は栗田健男中将が率いる主力部隊に配属され、「大和」「長門」「金剛」「榛名」などの名だたる日本戦艦と共に、フィリピンのレイテ島へ上陸しようとするアメリカ軍の迎撃へ向かいます。
しかし、途上のシブヤン海でアメリカ海軍艦載機から6回にわたる猛攻撃を受け、ついに沈没。この時受けた被害は魚雷20本、爆弾17発と推定されており、被弾記録は「世界一被弾火薬量の多い軍艦」としてギネス記録にもなっています。ただ攻撃が「武蔵」に集中し、被害を一手に引き受ける形となったため、主力部隊は壊滅を免れ、他の艦艇は前進を続けることができました。
2015年、マイクロソフト社の共同創業者であるポール・アレン氏が海底に沈む「武蔵」を発見。同年10月には、「武蔵」に艦内神社を分祀した氷川神社(さいたま市大宮区)の境内に「戦艦武蔵の碑」が建立されています。
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