戦争終わったはずじゃ!? ソ連潜水艦による一週間後の惨劇「三船殉難事件」1700人余が犠牲 でも日露両政府は認めず 何故?【前編】

8月15日は「終戦の日」と呼ばれるため、この日をもって戦争が終わったと思われがちです。しかし、南樺太ではその後も戦闘は続き、しかも北海道の沖合では民間船が沈められ、多数の犠牲者が出ていました。

小笠原丸の沈没

「小笠原丸」は、逓信省(現在のNTTや日本郵政の前身)の海底ケーブル敷設船でした。当初は逓信省関係者を乗船対象にしていたようですが、最終的には一般の避難民を含め1500人ほどを乗せて8月20日に稚内に向け、大泊を出港しています。

Large 20250815 01

拡大画像

海底電纜(でんらん)敷設船「小笠原丸」(画像:留萌市教育委員会)。

 船には海軍の警備兵が乗り組んでおり、砲や機銃も特設されていましたが、こうした銃砲類は8月15日の終戦を受けて覆いが被されていたそうです。また、米英をはじめとした連合国軍からの指示により、誤って攻撃されないよう一定の無線信号を出し、夜間には自船の位置を示す航海灯も掲げていました。

 大泊から稚内までは、船でまる1日ほどかかります。21日、一般の避難民が下船する予定の稚内には無事到着したのですが、次の目的地である小樽の方が交通の便が良いため引き続き乗船したいという声が避難民から多く出た結果、約600人が船に残り、船員・兵士100人とともに小樽へと向かいました。

 こうして稚内から日本海へと航行していた「小笠原丸」でしたが、8月22日未明に潜水艦による魚雷攻撃を受け、沈没しました。その様子は、留萌にある防空監視哨(敵機の飛来をいち早く見つけるための監視施設)からも望遠鏡で確認できたといいます。

 攻撃してきた潜水艦は小笠原丸の沈没後浮上し、海に投げ出された人々に対し機銃掃射を加えたとの証言も残ります。この攻撃により乗客乗員600人以上が死亡し、生存者は60人あまりでした。

 なお、この「小笠原丸」に乗船し、稚内で降りて難を逃れた避難民の中に、納谷幸喜という5歳の少年がいました。少年は成長して力士となりました。のちの横綱「大鵬」です。

【日本が分割されていたかも】これがソ連の北海道占領プランです

最新記事

コメント

1件のコメント

  1. これまでも。そしてこれからも国際法を順守しないロシア。忘れてはなりません。ウクライナの惨劇を見ても気付かないパヨク。平和ぼけも極まれりか。