戦争終わったはずじゃ!? ソ連潜水艦による一週間後の惨劇「三船殉難事件」1700人余が犠牲 でも日露両政府は認めず 何故?【前編】

8月15日は「終戦の日」と呼ばれるため、この日をもって戦争が終わったと思われがちです。しかし、南樺太ではその後も戦闘は続き、しかも北海道の沖合では民間船が沈められ、多数の犠牲者が出ていました。

8月15日の後に起きた樺太の戦い

 当時の南樺太には、旧日本陸軍の第5方面軍(司令部:札幌)指揮下にあった第88師団が守備隊として駐留していました。正規の部隊だけでは兵力が足らず、現地の一般住民に対して防衛招集をかけ、地区特別警備隊や国民義勇戦闘隊を組織して補助戦力とし、侵攻してきたソ連軍に対して応戦しています。

Large 20250815 01

拡大画像

留萌市の海のふるさと館横公園に建てられている「樺太引揚三船殉難(からふとひきあげさんせんじゅんなん)平和の碑」(柘植優介撮影)。

 玉音放送後の8月16日、大本営は停戦交渉成立前に相手が攻撃した場合などの「やむを得ない自衛」を除いて、ただちに戦闘行動を停止するよう全軍に命令を出しました。しかし、第5方面軍は第88師団に対して南樺太の死守を命じ、戦闘継続を指示。これは、第5方面軍の司令官である樋口季一郎中将が、ソ連の占領によって当地の赤化(共産主義化)を懸念したためとも考えられています。

 同じく16日にはソ連軍の上陸作戦が始まり、学徒や女性を含む一般住民で組織された義勇戦闘隊も参加して戦闘が展開され、多くの犠牲者が出ました。20日からは南部の海岸にもソ連軍が上陸して攻撃を加えましたが、その最中には真岡郵便電信局の電話交換手だった女子職員10名が局内で集団自決し、うち9名が死亡した「真岡郵便電信局事件」なども起きています。

 このような一般住民を巻き込んだ戦闘が繰り広げられる一方、戦闘に参加できない高齢者や小さな子、その母親などを緊急に疎開させる計画も進められます。まず13日には、樺太南部の大泊港から鉄道省の稚泊連絡船「宗谷丸」が出港。これを皮切りに、北海道への疎開船が運航され始めました。

 こうした緊急疎開が進められるなか、「三船殉難事件」は起きてしまいました。

【日本が分割されていたかも】これがソ連の北海道占領プランです

最新記事

コメント

1件のコメント

  1. これまでも。そしてこれからも国際法を順守しないロシア。忘れてはなりません。ウクライナの惨劇を見ても気付かないパヨク。平和ぼけも極まれりか。