道路建設で「史跡が出てきた!」そのときどうした? 壊さず“豪快に避けた”道たち
道路建設によって多くの史跡が失われた一方、その保存が模索されたケースもあります。大胆に道路の線形を変えて守られた史跡を紹介します。
旧街道、そりゃ史跡もある
都市と都市とを結ぶ旧街道の多くは、工事が容易で管理にも手間がかからない水はけのいい尾根筋を選び、整備が進められました。そうした“地の利”は、自動車交通にとっても適していたことから、道幅を広げた旧街道が、そのまま現役の国道として機能しているところもあります。

ただこのとき課題となるのが「史跡」や「遺跡」です。旧街道沿いに残っていた歴史的な資産、古い街並みや価値のある史跡の多くは、道路の改良によって消え去ってしまったところが少なくありません。
しかし、東京には関係者の尽力で、江戸時代の「一里塚」が残されたところがあります。北区西ヶ原の都道455号「本郷通り」にある「西ヶ原一里塚」や、板橋区志村の国道17号「中山道」にある「志村一里塚」です。
●ど真ん中の史跡を避ける道
西ヶ原一里塚は、江戸時代に将軍が日光東照宮に往来する際の専用街道「日光御成道」の2番目の一里塚として築かれました。
大正時代、東京市電(現在の都電)の延長工事にともない、いったんは撤去されることになったものの、当時の東京市長、滝野川町長、さらに近隣の飛鳥山に居を構えていた実業家 渋沢栄一らの尽力により、一里塚を避けた軌道が採用されました。現在も、道路のど真ん中の一里塚を避けるように上下線が分かれる線形です。
●史跡保護で「歩道を曲げた」
志村一里塚は中山道で本郷森川宿、板橋平尾宿に続く3番目の一里塚で、中山道を挟むように対になって設置されました。
明治期には多くの一里塚が消滅していきますが、志村一里塚は1923年から行われた中山道の拡幅工事の際、土砂の流出から一里塚を守るため、周囲に石積みによる補強工事が行われています。
またその後、中山道が対になった一里塚の間ギリギリまで、上下5車線へと拡幅された際も、上り線側の歩道を一里塚の裏側へ迂回するように付け替え、一里塚本体を守っています。
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