「高田馬場の埼京線ホーム」なぜ幻に? 山手線はパンク必至 「待ったなし」だった貨物線活用の経緯
2025年に埼京線が40周年を迎えました。埼京線が走る山手貨物線は、開業当時、限られた財政と時間で「妥協」を重ねながらなんとか旅客化された区間です。山手貨物線はいかにして貨物線から「山手快速線」へと変わってきたのでしょうか。
このままでは山手線がパンクする!
埼京線は2025年で開業40年(新宿乗り入れから39年)となり、湘南新宿ラインですら運行開始から四半世紀近くが経過しました。両路線が走る「山手貨物線」は今も早朝深夜を中心に貨物列車が運行していますが、日中はまるで「山手快速線」という位置付けです。どのような変化を重ねてきたのでしょうか。
大正期に複々線化して貨客分離した山手線は、長らく鉄道貨物のジャンクションとして機能してきました。しかし、都心を通過する貨物列車の存在は線路容量を圧迫するため、都心を迂回する貨物バイパス線の武蔵野線を建設し、貨物以上に急増する旅客需要に対応することになりました。
こうして山手貨物線の旅客化に向けた検討は1970年代に始まり、1980年代に入って貨物輸送の衰退・縮小が加速すると、より具体的なものになっていきました。一例として、1979(昭和54)年の国鉄建設局「停車場技術講演会」で、東京第三工事局調査課が発表した「裏山手通勤輸送計画」を見ていきましょう。
聞きなれない「裏山手」にギョッとしたかもしれませんが、これは東北本線から都心方面の流動について、上野・東京方面を「表山手」、新宿方面を「裏山手」とする国鉄の内部用語で、ネガティブな意味の表裏ではありません。
1978(昭和53)年の朝ラッシュ1時間あたりの混雑率は、大宮以北の東北本線が248%、高崎線が239%、大宮以南は東北本線が246%、京浜東北線が206%。また赤羽線(現在の埼京線)赤羽~池袋間が283%、山手線内回り池袋~渋谷間が253%でした。
東京都市圏の拡大で東北本線・高崎線沿線が宅地化したことと、「副都心」として池袋・新宿・渋谷の存在感が増したことで、「表山手」主体の輸送形態では対応できない需要が急増。このまま推移すれば1985(昭和60)年頃には赤羽線、山手線内回りの乗車率が300%を超えるとして、対策が急がれることとなったのです。
国鉄は1976(昭和51)年に発表した「今後の国鉄貨物営業について」の中で、渋谷・渋谷・大崎・池袋などの貨物駅を1980(昭和55)年度までに廃止し、田端などに拠点駅に集約すると表明しており、山手貨物線の貨物列車も大幅に削減される見込みでした。





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