「高田馬場の埼京線ホーム」なぜ幻に? 山手線はパンク必至 「待ったなし」だった貨物線活用の経緯
2025年に埼京線が40周年を迎えました。埼京線が走る山手貨物線は、開業当時、限られた財政と時間で「妥協」を重ねながらなんとか旅客化された区間です。山手貨物線はいかにして貨物線から「山手快速線」へと変わってきたのでしょうか。
高田馬場ホーム設置案がボツになった理由
同時期に進んでいたプロジェクトが後の埼京線、東北新幹線と並行する「通勤新線」計画です。当時、赤羽~池袋間を往復する赤羽線は激しい混雑が生じていた上、両端駅で乗り換えが必要なことから、通勤新線は赤羽線との一体化を前提に計画されました。
しかし赤羽線が池袋止まりのままだと新宿、渋谷方面に向かう人が山手線に流れ込み、同線の内回りは混雑率300%を超えてしまいます。そこで、池袋から山手貨物線に乗り入れることで乗り換え不要と輸送力増強を実現すれば、山手線内回りの混雑率を250%まで下げられると試算したのです(今から見れば改善後もすさまじい数字です)。
前掲記事は山手貨物線の旅客化にあたり、池袋~品川間の降車客の75%を占める池袋、高田馬場、新宿、渋谷の4駅を設置するとしています。掲載の図面を見ると、池袋は2004(平成16)年の大改良以前の平面交差構造、新宿は埼京線開業時と同じ東口寄りの1面だけのホーム、渋谷は貨物駅跡地を転用した山手線から大きく離れた旧ホームであり、実際に開業したものとほとんど同じです。
気になるのは、実現しなかった高田馬場駅です。記事によれば山手貨物線の下り線(田端方面)はそのままで、上り線(品川方面)を敷地いっぱいに移動させて線間を広げ、幅3~7m、有効長220mのホームを設置。ホームは山手線ホームよりやや北側、改札前のガードをちょうどまたぐ形での設置を想定していたようです。
しかし3年後、1982(昭和57)年の「停車場技術講演会」では、高田馬場へのホーム設置については引き続き検討としながらも「山手線の旅客流動面から他の2駅に比べて利用客も少なく、停車させた場合の輸送効果も少ない」と述べ、一気に後退しています。
また、埼京線が開業した1985(昭和60)年の業界誌『交通技術』には、「途中停車駅については旅客流動、駅の混雑状況から高田馬場を検討したが、(1)乗降場の新設は物理的に無理があり、かつ多額の工事費を要する(2)停車させた場合とさせない場合で、山手線内回りの混雑率および高田馬場駅の混雑状況には大差がない」として設置を見送るとあります。
山手貨物線の旅客化は、国鉄末期の急速な貨物輸送縮小と、東京都市圏の急拡大に対応すべく、限られた財政と時間の中で具体化させた、いわば妥協案でした。本当の意味で「山手快速線」になるためには、民営化から長い時間をかけて池袋、新宿、渋谷の各駅を大改良する必要があったのです。
Writer: 枝久保達也(鉄道ライター・都市交通史研究家)
1982年、埼玉県生まれ。東京地下鉄(東京メトロ)で広報、マーケティング・リサーチ業務などを担当し、2017年に退職。鉄道ジャーナリストとして執筆活動とメディア対応を行う傍ら、都市交通史研究家として首都圏を中心とした鉄道史を研究する。著書『戦時下の地下鉄 新橋駅幻のホームと帝都高速度交通営団』(2021年 青弓社)で第47回交通図書賞歴史部門受賞。Twitter:@semakixxx
コメント