日本本土初空襲はどこの国から? 「人道爆撃」を成功させたB-10

「人道爆撃」成功の、その後

 この「人道爆撃」は少数の中国空軍が桁違いに強大な航空戦力を持つ大日本帝国陸海軍に対して完全な勝利を得た伝説の戦いとなりました。作戦を指揮した徐 煥升大尉はのち台湾空軍大将、台湾空軍最高司令官にも就任しており、いまもなお台湾空軍にとっては特別な歴史であり続けています。面白いことに、まったく無関係であるはずの中国本土側の人民解放軍空軍においても、自分たちの輝かしい勝利と見なしているようです。

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1938年から1939年にかけ生産された、B-10爆撃機の輸出モデル(画像:アメリカ空軍)。

 一方、日本側は「人道爆撃」に対してまったく有効な防空手段を講じることができず、やったことと言えば軍や警察によってチラシを回収しただけだったようです。ただ、政府発行の「写真週報」8月31日号では誌面の殆どすべてを「防空おぼえ帖」という特集にあてており、本土空襲は将来ありうるとし、そしてそのための備えを喚起していることからも、少なからず影響を与えたのかもしれません。

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エアショーにて、零戦と飛行するB-25爆撃機。アメリカのドゥーリットル隊はこの中型爆撃機を空母から強引に飛ばし日本本土を空襲した(関 賢太郎撮影)。

「本土初空襲」という言葉で語られるとき、それはほぼすべて太平洋戦争勃発後の1942(昭和17)年4月18日にアメリカ陸軍のジミー・ドゥーリットル中佐率いるB-25双発爆撃機によって行われた作戦を指します。しかし、実際に日本本土初空襲を指揮したのはドゥーリットル中佐ではなく徐 煥升大尉だったことは、もう少し知られてもよい歴史の事実だと言えるのではないでしょうか。

【了】

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コメント

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2件のコメント

  1. この作戦は宮崎駿が雑想ノートで描いてる。
    マーチンB-10は図鑑に戦闘機より速い爆撃機と紹介されてた。

  2. やはり日本人のほうが非人道的なんだな