消えた駅弁、残った駅弁 鉄道の進化に左右された峠の名物の「その後」

SLの停車時間に駅弁を販売

 明治の頃から昭和の中頃まで、長距離列車の多くは客車を蒸気機関車(SL)が牽引(けんいん)していた。動力がSLだと途中で給水が必要となり、峠越えを前にした駅では必ず数分間の停車時間があった。この停車時間こそ、駅弁を売るには絶好のチャンスで、かつての東海道本線の山北駅(現・御殿場線)や北陸本線の今庄駅、信越本線の横川駅などがそうした駅だった。また、かつての鹿児島本線の人吉駅(現・肥薩線)や吉松駅なども同様で、現在も昔ながらの弁当の立ち売りが行われている(※時間によるので訪ねる際には事前に確認を)。

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山北駅で営業していた中川の「鮎寿し」掛け紙。「昭和7年8月6日」の印がある。
北陸本線の今庄駅、大黒屋の「御辨當」掛け紙。値段は15銭、神社や滝など周辺の観光名所が描かれている。
現在も販売中の高野商店「香箱蟹ごはんのかにすし」(1480円)。北陸名物のカニをじっくり味わおう。冬季限定販売。

 もう少し詳しく解説しよう。

 山北駅は、「天下の劔(けん)」と歌われた箱根越えを控え、補助機関車の連結が行われていた所で、全ての優等列車(特急列車、急行列車、準急列車など)が停車した。隣接する機関区にはSLが多数在籍していたことから「山北のスズメは真っ黒だ」といわれるほど、煙が絶えない場所だった。ここでは調製元の中川が、地元の酒匂(さかわ)川で獲(と)れた鮎を使った「鮎寿し」が人気を博し、特急列車の車内でも注文を受け付けていたほどだった。1934(昭和9)年12月、丹那トンネルが開通すると同駅は御殿場線の駅となり、優等列車は新しい東海道本線の熱海駅経由で運転され、隣接する機関区の縮小と廃止、戦争のため鉄材供出により単線化されてしまう。そして名物の「鮎寿し」も、しばらくして消えてしまった。

 福井県の今庄駅は、1962(昭和37)年6月に北陸トンネルが開通するまでは、山中峠を越えて敦賀駅に至るルートの準備基地として機関区も置かれ、優等列車が必ず停車する駅だった。ここでは大黒屋(現・高野商店)の初代高野亀之輔が弁当の立ち売りを行っていた。

 北陸トンネルの開通によって優等列車が停車しなくなると、高野商店は販路を加賀温泉郷のある大聖寺駅に移した。ところが、近接する動橋(いぶりばし)駅にも特急列車が停車していたところから、1970(昭和45)年のダイヤ改正で大聖寺駅と動橋駅の中間にある作見駅(現・加賀温泉駅)に特急を集約して停車させ、大聖寺駅と動橋駅には特急が停車しなくなってしまった。これにより同年、大聖寺駅から加賀温泉駅に移転し駅弁の製造販売を開始して現在に至っている。鉄道事情により2回も移転した例は稀(まれ)で、北陸を代表するカニを食材にした駅弁など多種販売しているほか、現在は金沢駅でもオリジナル弁当を売っている。

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コメント

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2件のコメント

  1. 20年ほど前まで高山線の飛騨金山駅で売っていた「栗こわい」の復活を希望したいな。
    おじさん一人で作っていたけど、後継者がいなくなって廃業したんだよね。

  2. >栗こわい
    時刻表に載っており、栗がこわいってどういうことよ????と、思いました。
    それと、中部地方ですとペリカンなんてのもあったような…

    碓氷峠の駅弁ですと、軽井沢のゴルフ弁当食べたかったなあ…
    ゴルフボール型の容器の洋風弁当だったかと。
    小諸の藤村一膳飯もなかなかの逸品でした。