沿線はほぼダム湖、沈んだ村の縁をゆく秘境路線バス 渇水時には湖底に「村役場」が
ダムの湖底に村の歴史を示す「名物」が
大川橋バス停の周辺でようやく大川村に入ります。この近辺には、ダム湖の湖面から数10mほど上がった場所を大きく削って造成した「小松団地」という住宅団地や、役場などが集まっています。湖面側に張り出して造られた駐車場の一角にある大川局前バス停で、バスはしばし時間調整。
もともとの村があったのは、この駐車場からはるか下に見えるダム湖の底。村内に銅山があり、一時は人口4000人以上を数え、活況を見せていました。そのような村にダム建設の話が持ち上がったのは1950(昭和25)年のこと。大川村の大半がダムに沈むこの計画に対して、村側の反対は強烈なものでした。村民は長年にわたって抗議行動を行い、ダム予定地にあえて役場を建て直すほどの抵抗をしましたが、結局ダム湖に沈んでしまいました。
2004(平成16)年、その旧・村役場が大きく注目を浴びます。数十年にいちどの渇水でダムの貯水率は0%近くに落ち、3階建ての役場がダム湖に姿を現したのです。大きく朽ち果てることもなく泥まみれの湖底に建つその役場をひと目見ようと、路線バスも賑わいを見せました。さらにツアーバスや自家用車で道路が渋滞し、上空には毎日にように報道のヘリが飛び交い、見物客目当てに屋台まで出るほどの一大イベントと化しました。いまもダムの渇水時には、この旧・村役場が見えることがあります。
さて、時間調整を終えたバスは大川局前を出発。ダムの湖面はさらに低くなり、道の向かい側には、ダム建設のはるか前にあった旧道も見えてきます。岩肌をまさにくり抜いたような道で、舗装の痕もなく、トンネルも素掘りです。
すれ違いにも難儀するダム湖畔の狭い道を抜け、対岸に見える高藪発電所を越えたあたりからは、細くなった吉野川と並走。やがて道幅が少し広がり、人家も増えてきます。終点の日の浦局前バス停には、さらに西へ向かう長沢行きのバスが発着しますが、大川村方面から来た同じバスが、このまま長沢行きとして運行されることもあります。
【了】
※記事制作協力:風来堂、oleolesaggy
水没直前に新築した庁舎、もとの目的に使われた期間は短くても後に全国的知名度を得て観光客を呼べる名物となったのであれば個性ある村おこしとして有意義なのかもしれないですね。