「都会のローカル線」南海汐見橋線に乗ってみた 「幻の関空連絡鉄道」の将来は(写真89枚)
都心乗り入れ路線でも利用者が少ない理由
30分後、再び汐見橋行き電車に乗車。今度は沿線住民らしき手ぶらの客も乗っていましたが、それでも5人。ふたつ先の木津川駅で降りたのは、またしても記者ひとりでした。ここも窓口は閉鎖されていて、駅員はいません。周囲は空き地が広がっていて、西側の駅前広場は砂利が敷かれているだけ。人の気配は感じられず、過疎地のローカル線に迷い込んだかのような気分です。
木津川駅から3本目の列車に乗り、JR大阪環状線の下をくぐって終点の汐見橋駅へ。ホームの末端には比較駅大きな駅舎が設けられていて、駅員もいます。目の前には片側4車線の千日前通りが広がっていて、車線の両脇に設けられた歩道を行き交う人も多めです。
それでも、汐見橋駅に出入りする人はごくわずか。広いコンコースはがらんとしています。大阪の中心部に乗り入れる路線にも関わらず、こうも利用者が少ないと「都会のローカル線」と呼びたくなります。
汐見橋線はいまから120年近く前の1900(明治33)年9月3日、現在の南海高野線の一部として開業。このころ、南海本線は南海鉄道が運営していましたが、高野線は高野鉄道(のちの大阪高野鉄道)という別の会社が運営していました。
高野鉄道は当初、堺で南海鉄道に接続して大阪と高野山を結ぶ計画でしたが、のちに自力で大阪の中心部に乗り入れる方針に転換。道頓堀川を渡る汐見橋の近くに道頓堀駅(現在の汐見橋駅)を設け、大阪側のターミナルとしたのです。
しかし1922(大正11)年、南海鉄道は大阪高野鉄道を合併します。ひとつの会社で運営するのなら、ターミナルをひとつにまとめたほうが効率的。難波駅から高野線に直通する列車の運転がほどなくして始まり、1929(昭和4)年には高野山方面に向かう全ての列車が難波発着になりました。
高野山方面に向かう列車が通らなくなっただけでなく、ターミナルの汐見橋駅が繁華街から外れていることもあり、汐見橋線の利用者は減少。正式にはいまも高野線の一部ですが、2両編成の電車が終日30分間隔で運転されるだけになりました。
阪神なんば線の桜川駅、思い切り汐見橋交差点にあるというのに、どうして駅名を「桜川」にしたんだろうか。。。南海の汐見橋駅がなくなるのを見越して千日前線の駅名と同一にした方が賢明と判断したのだろうか。