「鳳翔」に始まる日本の「空母」を振り返る 黎明期からのその20年あまりの歴史とは
戦後70年あまり途切れていた日本の「空母」が、いま再び動き出そうとしています。世界に「空母」というものが誕生したころから太平洋戦争終結までの、20年あまりの日本におけるその歴史を振り返ります。
最初は戦艦の撃ち合いを助ける脇役
新聞の見出しになるほど、「空母」という言葉にはインパクトがあるようです。2018年12月に発表された、新たな防衛力整備の指針「防衛計画の大綱」で、海上自衛隊のヘリコプター搭載護衛艦いずも型が、短距離離陸垂直着陸戦闘機F-35Bの運用をできるよう、事実上の空母へ改修されることが示されました。正式には「多機能のヘリコプター搭載護衛艦」と呼ばれますが、「攻撃型空母」ではないのか、専守防衛との関係はどうなのかと議論が交わされています。
そもそも「空母」を、日本はどのように扱ってきたのでしょうか。日本で最初に空母として建造されたのは、1922(大正11)年12月27日に竣工した「鳳翔(ほうしょう)」でした。
20世紀に入るまで、海上戦闘の基本は大砲の撃ち合いでした。レーダーがなかった時代に大砲を照準するのは目視でしたが、どんなに大きな大砲でも「当たらなければどうということはない」のです。大砲が大きくなって射程が長くなると、水平線越しの砲撃戦などという場面も出てきます。着弾観測のため戦艦の艦橋もどんどん高くなり、望遠鏡も大きくなりますが、限界があります。そこで注目されるようになったのが、航空機による偵察と着弾観測です。
水上機を海面に下ろして発進、回収を行う「水上機母艦」は第一次大戦前から存在していましたが、砲撃戦で航空機を使うことは、同大戦の陸上戦で有効性が認められていたので、艦船にも着弾観測用に水上機が使われるようになりました。そして、海戦を有利にするため敵の水上機を追い払い、味方の水上機を守る「戦闘機」が登場し、海の上でも「制空権」を取り合う空中戦が起きるようになります。
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水上機には、水面に浮かぶための大きなフロートが付いており、陸上機より性能は劣ります。空中戦ではフロートの無い陸上機の方が有利です。制空権を取るために陸上戦闘機を飛ばせる艦「空母」が生まれるのは必然でした。しかし当初、「制空権」を確保した後の海戦の主役は戦艦であり、空母の役割はあくまで戦艦の仕事の事前準備でした。
空母が初めて積極的な攻撃手段として使われたのは、イギリスの軽巡洋艦改造“空母もどき”「フューリアス」が1918(大正7)年7月19日、陸上戦闘機7機でドイツ海軍飛行場を攻撃したのが最初と言われています。
ニミッツの『太平洋戦争海戦史』の始めのほうに「真珠湾の惨敗前でさえ、米艦隊はすべての艦種で日本艦隊より劣勢であった。もっとも具合が悪いことには、米国が三隻の空母をもって日本の十隻に対抗したことである」とある。
米空母も25番爆弾にさえ格納庫甲板抜かれて機関に損害が出ていたりする
撃たれる側の構造以外の違いも見逃せないね