「鳳翔」に始まる日本の「空母」を振り返る 黎明期からのその20年あまりの歴史とは

そして空母は海戦の主役へ

 第一次世界大戦ののち、第二次世界大戦までの戦間期に航空機は目覚ましい進歩を遂げ、旧日本海軍は「空母」の新造を決めます。航空機運用専門艦はまだ各国とも試行錯誤の状態であり、日本も見本となる外国情報もないなか、手探りでの建造開始になりました。

 こうして生まれたのが、旧日本海軍空母「鳳翔」です。

 当初は「龍飛(たっぴ)」の艦名で、1919(大正8)年度内の完成を予定していた「鳳翔」ですが、コンセプトは二転三転し、竣工したのは1922(大正11)年でした。水上機を吊上げるクレーンを装備するなど、水上機と陸上機両方を運用できるような構造になっており、試行錯誤の様子がうかがえます。その後1944(昭和19)年まで、何度も改修が行われて姿を変えています。

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真珠湾を攻撃する旧日本海軍艦載機(画像:アメリカ合衆国議会)。
真珠湾攻撃に向かう旧日本海軍空母「加賀」(写真左)と「瑞鶴」(画像:アメリカ海軍)。
レイテ沖海戦で損傷したアメリカ空母「プリンストン」に接近し放水する巡洋艦「バーミングハム」(画像:アメリカ海軍)。

 航空機の性能が向上し、搭載する兵装が強力なものになると、1930年代後半には、航空機で戦艦を撃沈できるかもしれないという期待が世界の軍関係者のなかで生まれ、広がりますが、まだ半信半疑の状態です。これを確信に変えたのが、旧日本海軍による「真珠湾攻撃」と「マレー沖海戦」です。空母の艦載機による広い攻撃範囲と柔軟性、そしてけた違いの展開速度で、戦艦の出る幕はなくなり、太平洋戦争は空母が海戦の主役となって、その艦載機の質と量が決する戦いになったのです。

 旧日本海軍は「鳳翔」以後、アメリカなど5か国のあいだで1922(大正11)年に締結した、戦艦や空母の保有を制限する「ワシントン海軍軍縮条約」により、未完成となっていた巡洋戦艦「赤城」「加賀」を空母に改装したうえ、新造空母を5隻立て続けに建造し、太平洋戦争開戦時には空母9隻を有していました。「真珠湾攻撃」にはそのうち6隻が参加しています。しかし、戦争が長引くにつれ戦没数は就役数を上回り、結局、「一度の海戦に参加した空母の数」は、1944年(昭和19)年6月19日の「マリアナ沖海戦」時における9隻が最高でした。この海戦で空母3隻を喪失、そして1944(昭和19)年10月23日からの「レイテ沖海戦」で、空母4隻をおとりとして用いて損耗すると、以後、旧日本海軍は空母部隊を編成することができなくなります。

 最初の空母「鳳翔」は、1942(昭和17)年6月5日からの「ミッドウェー海戦」で主力戦艦部隊に随伴したのを最後に、練習空母として内地に留め置かれたため、航行可能状態で生き残ることができ、戦後、復員船として活躍することになります。

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コメント

2件のコメント

  1. ニミッツの『太平洋戦争海戦史』の始めのほうに「真珠湾の惨敗前でさえ、米艦隊はすべての艦種で日本艦隊より劣勢であった。もっとも具合が悪いことには、米国が三隻の空母をもって日本の十隻に対抗したことである」とある。

  2. 米空母も25番爆弾にさえ格納庫甲板抜かれて機関に損害が出ていたりする
    撃たれる側の構造以外の違いも見逃せないね