「潜水空母」伊四百型はなぜ生まれ、何を残した? 旧海軍、乾坤一擲の「秘密兵器」

戦況の悪化で任務も変化

 その後、戦況の悪化によって「潜特型」の建造計画は縮小変更され、1943(昭和18)年12月に建造数は5隻となり、代わりに搭載できる水上攻撃機の数を、2機から3機へ増やすことになります。建造も急がれ、1944(昭和19)年12月30日に伊四百、1945(昭和20)年1月8日に伊四百一の2隻がようやく竣工します。しかし、竣工したからとすぐに戦力化できるわけではありません。

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伊四百の飛行機格納筒。直径3.5m、長さ30.5mあり、3機の攻撃機を収納する。これだけでも小型潜水艇なみの大きさ(画像:アメリカ海軍)。

 1945(昭和20)年になると、当初の目的であった短期決戦にアメリカ世論を誘導するという、アメリカ東海岸での作戦はもはや無意味となります。同盟国ドイツが降伏しヨーロッパ戦線の戦火が収まると、大西洋方面のアメリカ艦隊が太平洋戦線に転進してくるのを妨害するため、パナマ運河攻撃も構想されますが、これもアメリカ艦隊の動きに間に合わないと判断されて中止されます。

 それでもこの秘密兵器で一矢でも報いようと、同年7月20日に伊四百と伊四百一は、アメリカ海軍機動部隊の泊地である西太平洋のウルシー環礁(現ミクロネシア連邦)に向け、青森県の大湊を出撃しました。攻撃予定日は8月17日とされていましたが、その2日前の8月15日に日本は降伏を宣言、両艦は合流にも失敗し、攻撃を断念します。苦労して開発された専用の水上攻撃機「晴嵐」も、実戦でエンジンに火を入れることなく海中投棄し、2隻とも日本へ帰還することになりました。

 そして伊四百は8月29日、アメリカ駆逐艦「ブルー」に、伊四百一は前述のように8月30日、アメリカ潜水艦「セグント」に、それぞれ拿捕されます。

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