旧軍空母「加賀」の一部始終 廃艦寸前の元戦艦はなぜ空母になり精強を誇るに至ったか
八面六臂の勇戦と終焉の時
1935(昭和10)年の改修と前後し、「加賀」は対中国戦線で実戦を経験します。そして1941(昭和16)年、ついに日本初の空母機動部隊(諸説あり)である「第一航空艦隊」が、「第一航空戦隊(「赤城」「加賀」)」と「第二航空戦隊(「飛龍」「蒼龍」)」で編制されました。太平洋戦争の幕開けとなったハワイの真珠湾攻撃で、第一航空艦隊は無事、任務を成功させます。
その後「加賀」は、西太平洋のトラック島へ進出し、ラバウル攻撃、カビエン攻撃、ポートダーウィン攻撃など、「赤城」と共に太平洋やインド洋を戦い続けました。ところが、太平洋戦争におけるその奮戦は半年ほどで終わりを告げます。運命の「ミッドウェー海戦」です。
1942(昭和17)年6月のはじめ、日本海軍はハワイ攻略の足掛かりとするために空母6隻(「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」「鳳翔」「瑞鳳」)をもって、ミッドウェー島に攻勢を仕掛けました。作戦計画においては、同島の攻略とともに、迎撃してくるアメリカ空母艦隊の補足撃滅も目的に入っていました。
この作戦目的の複数化が、逆に日本空母機動部隊の運命を決めてしまったのです。ミッドウェー島の飛行場をたたくためには陸用爆弾が有効です。それに対し、空母艦隊の撃滅なら、軍艦用爆弾や魚雷を用いなければなりません。この、兵装転換の間隙を突かれる形で、アメリカ艦載機部隊の来襲を受けてしまいました。
「加賀」はアメリカ急降下爆撃機隊の攻撃を受け、1000ポンド爆弾を3発回避したものの、4発目以降が次々に命中し、最初に甲板上の艦橋やエレベーターが破壊されたといいます。そして航空機用のガソリンに爆弾が命中、艦橋が吹き飛び、格納庫内の航空機や魚雷、爆弾が次々と誘爆し、甲板上は火の海になりました。
爆発は7回にもおよび、戦艦「榛名」の副艦長は「生存者はいない」と判断したほどでした。実際、艦長以下800人以上が「加賀」と運命を共にし、生存者は40人程度だったそうです。こうして、「加賀」はその数奇な一生を終えました。
時は流れて1999(平成11)年、ミッドウェー島沖の海面下5200mという海底に、1隻の空母が発見されました。その後、25mm機銃座や着艦誘導灯も見つかり、正式に「加賀」と認定。「加賀」は、いまも深い海の底で、静かに眠り続けています。
【了】
「加賀」と「信濃」がイレギュラー(戦艦改造空母なので、戦艦の命名規則に則って艦名が旧国名)と言うのであれば、「赤城」「葛城」もイレギュラー(重巡洋艦(巡洋戦艦)改造空母なので、重巡洋艦の命名規則に則って艦名が山の名前)なのに、何故「空母で山の名前は一般的」のように扱われているのか疑問。
読者に対して不誠実だと思う。
赤城と並んでいたので勘違いしてしまいましたが、葛城は純粋に空母ですが山の名前でした。
赤城は空母の命名規則で山の名前という訳ではないですが。
そに指摘は妥当。どうせ読者はわからない、疑問に思ってもどうせ調べないだろうし、どうでもいい、というのが、 書き手側の気持ちでしょう。