裏方専業の「工作艦」はなぜ米軍に狙われたのか 旧海軍「明石」が脅威たりえたワケ
本土の工廠にもない充実の設備
太平洋戦争の開戦以前より、工作艦の必要性を日本海軍は痛感していましたが、貧乏でした。まず空母や戦艦、巡洋艦などの戦闘艦を揃えることを優先せざるを得ず、工作艦には旧型戦艦を改造した「朝日」や、商船改造の特設工作艦で我慢していました。とはいえ「朝日」は鈍重で扱いにくく、特設工作艦としては能力不足でした。
1939(昭和14)年になって、ようやく工作艦として新造された「明石」が就役します。1941(昭和16)年に太平洋戦争が始まって、さらに工作艦2隻の新造計画が立てられますが、貧乏の悲しさ、戦闘艦が優先されて中止となり、工作艦として新造されたのは結局「明石」のみでした。
「明石」の船体は工場として使いやすく床面積を確保できるように、船体の乾舷(満載喫水線から上甲板までの垂直距離)は高くなり平甲板型で、上甲板も作業スペースを確保できるよう構造物は最小限とされました。艦内には旋盤やフライス盤などで機械部品を作る機械工場が2、機械を組み立てる仕上げ組立工場が2、兵器工場、高温の金属を急冷処理し、強度を向上させる加工を行う焼入工場、溶かした金属を型に流し込んで目的の形状に固める鋳造工場が3、金属を鍛錬する鍛冶(かじ)及び鈑金工場、鍛冶工場、銅製品を扱う銅工場、溶接工場、木製品を扱う木具工場、電気部品を扱う電機工場、青写真室、工具室の17もの工場がありました。そのなかには、本土の海軍工廠にも配置されていないドイツ製最新工作機械もありました。
艦内で働く工員は最大定員434名で、艦自体の乗員299名の約5割多い人数が乗り込んでいました。工場で必要な電力をまかなうため、交流600kVA、450Vのディーゼル発電機8基を搭載していましたが、これは戦艦「大和」と同等の発電能力です。補給無しでも3か月間行動でき、あらゆる修理工事が可能で、当時の連合艦隊の平時における年間所要作業量の4割が「明石」だけで処理できる能力があったとされていますので、まさに動く万能修理工場でした。
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