裏方専業の「工作艦」はなぜ米軍に狙われたのか 旧海軍「明石」が脅威たりえたワケ
期待通りの仕事ぶりも…
1941(昭和16)年12月、開戦を決意した日本は艦隊の動きを本格化させます。「明石」も太平洋戦争が始まる2日前の1941(昭和16)年12月6日に、当時、日本の委任統治領だったパラオへ到着、連合艦隊と緊密に連携して行動していることが分かります。ここで連合艦隊艦艇の整備、損傷艦補修の支援にあたることになります。
1942(昭和17)年6月4日にはミッドウェー攻略部隊支援のため、日本海軍の拠点であるトラック島に入りましたが、ミッドウェー海戦に惨敗して攻略作戦も中止され、任務が無くなってしまいます。しかしトラック島にとどまって常に4隻から5隻の艦船修理を担当し、戦力維持に多大な貢献を果たしました。修理を受けた艦艇数は戦艦「大和」を始め空母「大鷹」、重巡「青葉」、軽巡「神通」など300隻を超えると言われています。
1944(昭和19)年、戦局が悪化してトラック島も空襲を受ける可能性が高いと判断した連合艦隊司令部は、2月4日から艦艇の脱出を始めますが戦闘艦が優先され、「明石」など特務艦や民間船は後回しとなります。アメリカ軍は2月17日と18日にトラック島を空襲し、「明石」は爆弾1発を被弾したものの不発で、やっとの思いで脱出してパラオにたどり着きます。
避難先パラオでも脱出は戦闘艦優先でした。結局3月30日のパラオ空襲までに「明石」は脱出することができず、アメリカ海軍艦載機の爆撃を受けて炎上大破着底してしまいます。敗色の色濃い日本海軍にとってはとにかく戦闘艦が大切であり、もはや特務艦、民間船まで気を回す余裕は無くなっていたのです。
「明石」の喪失によって、事実上、南洋での艦船の修理拠点は失われ、戦闘艦の保守や修理効率は悪化していくのですが、皮肉にも修理すべき艦船は次々と戦没し、戦線も縮小して日本本土に迫ってくると、工作艦のニーズは少なくなっていきました。
【了】
Writer: 月刊PANZER編集部
1975(昭和50)年に創刊した、40年以上の実績を誇る老舗軍事雑誌(http://www.argo-ec.com/)。戦車雑誌として各種戦闘車両の写真・情報ストックを所有し様々な報道機関への提供も行っている。また陸にこだわらず陸海空のあらゆるミリタリー系の資料提供、監修も行っており、玩具やTVアニメ、ゲームなど幅広い分野で実績あり。
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