日本初の南極観測船「宗谷」超強運だった 元軍艦 受けた魚雷は不発 総員退艦でも復活
魚雷をくらっても不発! 「宗谷」の強運すぎるエピソード
「宗谷」の強運エピソードは、この戦時中に作られます。
まず、1942(昭和17)年の1月にトラック諸島で、「宗谷」はB24の空襲を受けますが無傷でこれをくぐり抜けます。その後も何度か空襲に合いますが、損傷を受けないどころか、敵機撃墜の戦果も挙げます。
そして、1943(昭和18年)1月28日には、南太平洋のブカ島(現パプアニユーギニア)クイーンカロライン沖で敵潜水艦に魚雷4本を発射され、1本が「宗谷」船体に突き刺さりますが、幸い不発で損傷は軽微でした。元々、砕氷船として作られていたため、二重船底で丈夫な構造となっており、浸水などもなかったそうです。
1944(昭和19)年2月17日と18日のトラック島空襲では、初日に回避行動をとった際に座礁し身動きが取れなくなり、絶体絶命の状況になります。2日目は自らを砲台とする形でほかの艦船を援護しますが、機銃掃射により高射砲手の全員が死傷し、さらに副長が戦死、艦長も負傷し、ついに総員退艦の命令が下ります。
普通はこの命令が出た時点で艦は諦めて捨てるということなのですが、空襲後、「宗谷」は運命のいたずらか“自然に”離礁して浮いており、艦を確認しに戻った乗組員を涙させたそうです。
戦争末期には測量機材を全部外し、横須賀~室蘭間で石炭輸送を任務とします。この輸送は航路上で、度重なる空襲や潜水艦の魚雷攻撃や、敷設された機雷のなかを突っ切るため、「特攻輸送」と呼ばれていたそうです。しかし、ここでも奇跡的なことに、「宗谷」は目立った損傷を受けることなく任務を続け、逆に敵潜水艦を爆雷で反撃して追い払い、撃沈された僚船の乗組員救出なども行いました。
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