致死率は10倍 WW1末期「スペインかぜ」クラスターに見舞われた旧海軍艦「矢矧」の教訓
閉鎖された艦内での集団生活が致死率16%を誘引
1914(大正3)年7月に第1次世界大戦が勃発すると、日本は当時、同盟を結んでいたイギリスを助けるために、8月23日、ドイツに対して宣戦布告します。これにより日本海軍は、ドイツが中国および南太平洋に持っていた租借地や植民地を占領するために艦隊を派遣することを計画、「矢矧」もその一員として投入されました。
これらドイツの拠点を占領すると、今度はイギリスから、ヨーロッパやインドとオーストラリアを結ぶ商船航路をドイツ海軍の攻撃から守ってほしいという要請が出たため、インド洋に対して艦艇を派遣することになります。
「矢矧」もインド洋や南シナ海で任務に就いたのち、ほかの艦と交代するために1918(大正7)年11月9日、シンガポールへ入港しました。ここで「矢矧」は乗組員を上陸させたことで、スペインかぜの集団感染を引き起こすことになります。
前述したとおり、当時、スペインかぜは日本を含む世界各地で流行しており、日本海軍のほかの艦艇でも感染者が発生している報せは「矢矧」にも届いていました。しかし「矢矧」の艦長は、陸地を前にして乗組員を艦内に閉じ込めておくのは士気に影響すると考え、上陸を許可したのです。
その結果、11月30日にシンガポールを出港しフィリピンへの航路の途上、艦内でスペインかぜのクラスターが発生し、看護兵(衛生兵)や軍医まで倒れる状況に陥ります。「矢矧」にはシンガポールからの便乗者を含めて469名が乗っており、306名が発症、そのうち48名が死亡したのです。これは、発症率としては約65%、致死率は約16%にも上るものでした。
当時の日本国内におけるスペインかぜの発症率は約43%、致死率は約1.6%との記録があります。致死率で比較すると、「矢矧」においては10倍もの極めて高い数値であったことがうかがえます。
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