東武の廃線「熊谷線」を巡る 目指したのは「スバルの街」 佇む夢の跡と「特急カメ」
「カメ」から「特急カメ」に変わった路線?
熊谷駅から上熊谷駅までは、現在のJR高崎線と秩父鉄道の線路のあいだにレールが敷かれていました。上熊谷駅は秩父鉄道と共用の駅で、付近には当時のレールも一部残っています。両路線から分かれた廃線跡は一部が公園になっていますが、そこには「かめのみち」と書かれたモニュメントが。
「SL時代の熊谷線はゆっくり走ることから『カメ』と呼ばれていて、ディーゼルカーに置き換わると『特急カメ』などと呼ばれ親しまれていました」(栗原さん)
周囲に何の説明もなく「かめのみち」と現れるので、「知っている人しか分からないから、難易度高めですね」と栗原さん。その後も、大幡駅付近などに線路敷のスペースが見られますが、終点の妻沼駅付近は現在、交差点になっていて、当時の面影はほとんど残っていないそうです。ただ、交差点の脇に残る自転車置き場は、妻沼駅の当時から位置が変わっていないのでは、ということでした。
なお、旧妻沼駅近くに立つ熊谷市立妻沼展示館には、かつての「特急カメ」ことキハ2000形ディーゼルカーが、外から見える形で展示されています。この車両は1954(昭和29)年に3両が導入されたうちの1両で、熊谷線は、その3両で廃止まで運行されたといいます。
当時の面影がほぼなくなっているという妻沼駅周辺ですが、実は、利根川を渡った群馬県側の河川敷にも、熊谷線の大きな遺構があります。戦時中に建設されたものの、使われることなく放置された橋脚の一部が残されているのです。つまりこれは、熊谷線の「未成線」の痕跡。栗原さんによると、昭和50年代まではもっと多くの橋脚があったものの撤去され、1本だけが、歴史を伝えるために残っているのだそう。
「これも知らなければ単なるコンクリートの塊ですが、熊谷線のことを少し調べれば、この塊が鉄道や戦争の歴史を伝えてくれるのです」。かつての姿を想像できることが、廃線や未成線巡りの醍醐味だと栗原さんは話します。
【了】
廃止された背景には、国鉄民営化を始めとする赤字路線に対する社会の厳しい目や飛び地路線という特殊条件だった事による東武の路線維持管理の熱も無かったこともあるのではないか。
今となっては結果論だが、妻沼から先の大泉とかは来日外国人天国で旅客需要もあるから、もし延伸して維持いたらどうなっていたか。