性能良すぎて輸出禁止! 知名度皆無な冷戦期ソ連のSu-15戦闘機が関わった「事件」とは

ソ連の空を守る防空軍へ配備された「門外不出」のSu-15

 Su-15の総生産数は約1300機であり、1万機を超えるMiG-21に比べれば圧倒的に少数ではありますが、世界中に売られたMiG-21とは違い全機が防空軍へ配備され、性能特化型と電子機器特化型の両方の後継となります。1980年頃にはソ連防空軍29個戦闘連隊へ800機から900機のSu-15が配備され、実に防空軍の3分の1がSu-15となり、残っていた原型機Su-9と合算すると防空軍の半分を占めるに至ります。

 そしてSu-15の全盛期に発生したのが、大韓航空ボーイング747撃墜事件でした。また1978(昭和53)年4月20日に発生した大韓航空ボーイング707不時着事件において、空対空ミサイルを射撃したのもSu-15でした。

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後期の主力生産型Su-15TM。短距離離着陸能力改善のため主翼が「ダブルデルタ」となった。なお警告射撃用の機関砲ポッドを外装し747撃墜時も使用されている(関 賢太郎撮影)。

 Su-15は地上迎撃管制から全自動で標的まで誘導を行える、「ヴォーズドフ」と呼称するデータリンクシステムを搭載するなど高性能であったため、門外不出となりました。ソ連の防空を専門的に担うSu-15が想定する実戦とは、第3次世界大戦勃発による「米ソ核搭載爆撃機の殴り合い」でしたから、結果として実戦投入される機会はほぼありませんでした。

 体当たりによって撃墜(自身も墜落)という珍記録もあるにはありますが、Su-15は、冷戦中はほとんど知られることはなく、現在にいたるまであまり目立たない機種となってしまいます。しかし1980(昭和55)年前後においてソ連の空を守っていた主力は、紛れもなくSu-15でした。

 ちなみに1976(昭和51)年9月6日、新鋭機MiG-25ごと函館空港へ強行着陸、亡命したソ連防空軍のヴィクトル・ベレンコ中尉は、元Su-15のパイロットでした。もし彼がSu-15に乗り続けていたならば、日本におけるSu-15とMiG-25の知名度は逆転していたかもしれません。

【了】

【画像】大きくソ連領空に侵入していた大韓航空007便の航路図

Writer: 関 賢太郎(航空軍事評論家)

1981年生まれ。航空軍事記者、写真家。航空専門誌などにて活躍中であると同時に世界の航空事情を取材し、自身のウェブサイト「MASDF」(http://www.masdf.com/)でその成果を発表している。著書に『JASDF F-2』など10冊以上。

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