「後輪が隠れるクルマ」なぜ廃れた? そもそも何のため? 日本で普及しなかったワケ

後輪カバーは先進イメージのアイコン?

 このように、第2次世界大戦を挟んだ1930年代から1960年代にかけて、後輪カバーを含む流線形の空力デザインが一世を風靡しました。

 ただし、流行とは、波が大きければ大きいほど、反動も大きくなるものです。また、高速で走行するレーシングカーと異なり、一般道を走る量産車は速度域が低いため、後輪カバーによる空力向上のメリットは、ほんのわずか。速度アップや燃費向上への貢献は、微々たるものでしかありません。そのため、1970年代になると、流線形の空力デザインのブームはあっという間に沈静化に向かいます。

 そうした流行の変化は、当然、日本にもおよびました。ちょうど日本で本格的に国産車が生産されるようになるのは1960年代から。もちろん、走行する速度域は低いこともあり、日本ではテールフィン・デザインの流行も、ごく短期間に終わってしまいました。

 では、沈静化の後、流線形の空力デザインが消えてなくなったのかといえば、そうではありません。まず、レースなどリアルに空力性能を追求する場では、後輪をカバーするデザインは、現在まで消えることなく生き残りました。また、量産車としては、“先進イメージ”を付与するアイテムとして、同様に存続します。

 その“先進イメージ”の例のひとつが、1948(昭和23)年発売の「2CV」から「DS」シリーズを経て、1980年代に大人気となった「BX」まで、後輪カバーのデザインを採用し続けたシトロエンです。1955(昭和30)年に発表したDSシリーズは、空力デザインを追求した結果、「まるで宇宙船ようだ」と大絶賛されます。現在は、“カジュアルでおしゃれ”というイメージのあるシトロエンですが、1980年代までは“先進性”で売る、非常に尖ったブランドでした。そのブランド・イメージの醸成に後輪カバーのデザインは大きく貢献したのです。

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1950年代に誕生したシトロエン「DS」(画像:CITROEN)。

 一方、日本の自動車メーカーは、シトロエンほど尖った“先進イメージ”を求めなかったのかもしれません。そうしたなかで登場した1999(平成11)年の初代「インサイト」も、先行発売されていたトヨタの世界初のハイブリッドカー「プリウス」に追いつくために生まれた、ホンダ初のハイブリッドカーでした。つまり、なによりも先進性が求められていたのです。

 そういう意味では、この先、後輪をカバーするクルマが新たに生まれるとすれば、これまでにない高い先進性が求められるとき。どんな先進のクルマに採用されるのか、楽しみです。

【了】

【ギャラリー】現行の日本車も「後輪カバーのクルマ」いろいろ

Writer: 鈴木ケンイチ(モータージャーナリスト)

日本自動車ジャーナリスト協会(AJAJ)会員。自動車専門誌やウェブ媒体にて新車レポートやエンジニア・インタビューなどを広く執筆。中国をはじめ、アジア各地のモーターショー取材を数多くこなしている。1966年生まれ。

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コメント

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3件のコメント

  1. むかし拙宅にあった初代三菱ミニカがそうでした。今の言葉で言えば「誰得?」。

  2. DS、きれいだな。

  3. 夏タイヤー冬タイヤの交換をする人が、ほとんどいない。とはとても思えないんだけど。そこをバッサリ切ってアレコレ言うのには共感出来ない。。