時刻表に見る「昭和の高速バス」 30年でダイヤどう変わった? 当時のままの路線も

すべて一般道の鈍行バスだって便利だった

 この頃はバス事業者自身も経営体力に余裕があり、新規事業に積極的だったとも言えます。新路線ラッシュが一段落し、バブルが崩壊して以降も、多くのバス事業者らが、特に地方部において、地元のニーズに地道に対応してきたこともわかります。さらに2002(平成14)年の「高速ツアーバス」容認などを経て、東京~大阪などの大都市間路線については、高速バスどうしが、多様な座席タイプや運賃で激しく競合する、さらに新しい高速バス事業のあり方が定着しました。

 そんなことを考えていたら、さらに古い「時刻表」に出会いました。高崎経済大学の大島 登志彦名誉教授による『群馬県における路線バスの変遷と地域社会』(上毛新聞社)に、1963(昭和38)年ごろの、東京と群馬県内を結ぶ急行バスの時刻表が紹介されていました。

 東武バス(当時は東武鉄道のバス部門)が、東京駅八重洲口(現在、東北急行バスらが発着している停留所)を拠点に、高崎、前橋、伊香保、猿ヶ京、谷川岳方面および太田、足利、桐生方面へ運行していた路線です。高速道路は未開通で、東京駅~桐生は3時間以上かかっていました。

 しかし、そのダイヤを見ると、桐生からの上り便の始発は朝6時00分。東京駅からの下り便の最終は22時10分発で桐生への到着は1時25分(今日的な表記では25時25分)。それ以外のダイヤ構成も、群馬県側の人の利便性を優先しつつ、伊香保などの温泉や登山の観光客にも配慮されていて、完成度の高いものです。

 そう考えると、1960年代から80年代への四半世紀で、バス業界のニーズへの感度は、いったん「退化」していたのかもしれません。

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バスタ新宿開業以前の新宿高速バスターミナル。現在は家電量販店の一部になっている(画像:Cassiopeia sweet)。

 そして2021年現在、新型コロナウイルス感染症による需要減少で、多くの高速バス路線が減便、運休に追い込まれています。いつかこの問題が「収束」した際、需要のあり方は「コロナ前」と同様なのか、それとも変化しているのか――市場の声に耳を澄ませ、ニーズに合った運行ダイヤを目指すことが重要だと、古い時刻表たちから改めて教えられた気がしました。

【了】

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コメント

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1件のコメント

  1. ま~。この共同運行会社というのは曲者ですよね。
    お互い利益があり、数が多くなればそれだけ先導したがる船頭役も増えてくるわけで。

    そして、耐え切れず離反すればたいよう号の悲劇も出てくるわけですよ。
    怖い業界です。