「東北で戦が起きた」元陸自トップ3.11の対応を語る いかにして7万の隊員を動かしたか

地震発生とともに“戦が起きた”と直感

――地震発生の知らせを受けられた際の状況や心境などについてお聞かせください。

 3月11日14時46分、地震が起きた時、私は東京市ヶ谷の防衛省11階にある防衛事務次官室で行われていた会議に出席していました。そこで、いままで経験したことのないような激しい揺れに見舞われたのを覚えています。

 そのときに考えたのは、この揺れだと、これまで経験した地震よりも酷いな、ということでした。大きな胸騒ぎを感じるなかで、もし震源地が遠方ならば現地は大変なことになっていると瞬間的に考え、場所を確かめるためにTVを点けたところ、「震源地は三陸沖、マグニチュード8.4、最大震度7(いずれも当時)」というのが目に入ったわけです。

 TVは「津波の可能性あり」とも報じていたため、これは只事ではない、東北地方で文字どおり“戦”が起きたと思いました。

 状況的に会議どころでないのは明白だったため、直ちに会議は打ち切りとなり、その場にいた全員が会議室から出て一目散に各持ち場に散りました。

 当時、陸上幕僚長の執務室は4階にあり、地震でエレベーターが止まっていたため、11階から階段で一気に駆け下りました。下りるなかで、生存確率の高い72時間以内に人命救助を行うためには東北方面隊だけではマンパワーが足りない、全国から隊員を集めなければ対処できないと考え、執務室に入るなり、君塚東北方面総監(当時)を始めとして全国の5人の方面総監に電話をかけ、出動を指示しました。

 結果的に、このような迅速な判断が、陸上自衛隊の初動の早さにつながり、約2万人もの多くの方々を救出できたことにつながったと自負しております。

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当時の状況を振り返りながら話す火箱元陸上幕僚長(柘植優介撮影)。

――災害派遣を指示するにあたり、派遣する部隊と待機する部隊はどのように決めていったのでしょう。

 陸上自衛隊は全国を5つのエリアに分け、北部(北海道)、東北(東北)、東部(関東甲信越)、中部(中京北陸近畿中国四国)、西部(九州沖縄)の各方面隊を置いています。私は5人いる方面総監に、残置部隊すなわち待機部隊と、派遣部隊を明確に分けることを話しました。

 たとえば西部方面総監には、福岡の第4師団と小郡の第5施設団は直ちに派遣、ただし沖縄の第15旅団と熊本の第8師団は絶対に動かすな、といいました。これは東シナ海周辺の情勢を鑑みたとき、国防の隙を作ってはならないと考えたからです。

 このような考えのもと、中部方面総監や東部方面総監、北部方面総監にも指示を出しました。加えて、このとき派遣する部隊についても連隊(約600人から1000人程度)や大隊(約200人から400人程度)規模で分けるのではなく、師団(約6000人から8000人程度)や旅団(約2000人から3500人程度)を指定し、師団・旅団単位で派遣するよう指示しました。加えて施設団(重機やボート、架僑装備などを多数有するいわゆる工兵)の同時派遣も指示しました。

 また部隊が行動するうえで「兵站」すなわち補給整備支援は不可欠のため、東部方面総監と北部方面総監には、それぞれ南北から東北を支えるようにと指示し兵站支援区分を変更しました。

【写真】被災地で奮闘した陸海空自衛隊

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