「東北で戦が起きた」元陸自トップ3.11の対応を語る いかにして7万の隊員を動かしたか

教官から研究員、学生まで幕僚として派遣

――海上自衛隊や航空自衛隊との連携、また在日米軍との調整などはどのようなものだったのでしょう。

 当初は統合任務部隊を編成するまでは、陸海空それぞれの自衛隊ごとに動いていました。2011(平成23)年3月14日に統合任務部隊としてJTF-TH(災統合任務部隊・東北)が編成されてからは、統一指揮官のもとでやるということになりました。しかし実際には、強力なチカラを持つ幕僚が派遣されない限り、“協同”に近い統合任務部隊ではなかったかと私は認識しています。

 陸上自衛隊において現地部隊の司令部となったのは東北方面総監部でしたが、その幕僚組織は最低限の規模でしかなかったので、我々としては「増強幕僚」という形で、富士学校を始めとした各学校などの教育機関で教官や研究員を務める要員や、幹部学校において「CGS(指揮幕僚課程)」という教育課程に入校中の2年生学生も現地に派遣して、幕僚として東北方面総監をサポートさせました。

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アメリカ空軍の大型輸送機で沖縄から被災地に運ばれてきた第15後方支援隊の大型トラック(在日米軍撮影)。

 一方、海上自衛隊や航空自衛隊については、「LO」と呼ばれる連絡幹部のような形だったため、実際の指揮は、海上自衛隊は横須賀地方総監(神奈川県横須賀市)が、航空自衛隊については航空総隊司令官(東京都府中市)が行っていました。いうなれば“協力”に近い関係性だったので、統合部隊としては若干ゆるい態勢であったといえるでしょう。

 それでも方向性としては、陸海空が一緒になってやろうということだったので、初のモデルケースとしての意義はあったといえます。

 アメリカ軍は、空軍の横田基地(東京都福生市)から在日米軍の副司令官がLOとして市ヶ谷に来た一方、自衛隊からは当時、陸上幕僚監部防衛部長であった番匠(ばんしょう)陸将補以下数人を横田に派遣して、「日米調整所」という上級司令部同士の調整組織を立ち上げました。

 また、東北方面総監部のある仙台駐屯地および仙台空港のなかにも現地の「日米調整所」を作り、現地と中央の両方で連絡調整をとれる態勢を設けました。

【写真】被災地で奮闘した陸海空自衛隊

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