JR中央線の跨線橋が撤去の危機 街と鉄道の発展を90年見てきた「生き証人」の秘密
分断された町をつなぎ発展させてきた
三鷹のシンボル的な存在でもあった陸橋は、戦前の航空写真にもその姿を残しています。国土地理院が公開している1936(昭和11)年9月24日撮影の航空写真には、開設から7年を迎えた三鷹電車庫の中央に、西日を受けて線路に影を落とす三鷹跨線人道橋がはっきりと写っています。
その後も、航空写真は数年ごとに撮影されており、三鷹の町がどんどん発展していく様子を観察できますが、「陸橋」はいつの時代も同じ場所で、同じ姿で写っています。太平洋戦争末期の1945(昭和20)年2月には、三鷹電車庫が米軍の空襲を受けますが、陸橋に大きな被害はありませんでした。
さて、時代ごとの航空写真を見比べると、興味深いことがわかります。1936年の写真では、陸橋の周辺は田畑と雑木林が多く、民家は数えるほどしかありません。一方、戦後の1947(昭和22)年9月8日に米軍が撮影した写真を見ると、陸橋から南に向かって、民家が整然と並んでいます。
陸橋周辺は、上連雀(かみれんじゃく)と呼ばれる地域です。三鷹は、まず1657年に江戸を襲った「明暦の大火」で家を失った神田連雀町(現在の千代田区神田須田町1丁目付近)の人々が、現在の三鷹駅南側に移住し、連雀新田を開きました。その後、西側の土地を開墾して連雀前新田と呼ぶようになり、やがて江戸に近い連雀新田を下連雀、京に近い連雀前新田を上連雀と改称します。
つまり、三鷹はまず三鷹駅南口の下連雀が発展し、ついで三鷹電車庫周辺の上連雀が開かれたのです。しかし、上連雀は三鷹電車庫と中央線によって分断されていました。
昭和に入り、上連雀の宅地化が進みます。1947年の航空写真は、上連雀が住宅地として発展し始めた時期のもので、跨線橋が大きな役割を果たしていたことがうかがえます。
コメント